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As me like it

 今回は読書感想文ではない。もう自分で書きたいと思った。心境などを、柔らかく書いても良いと思った。読書感想文で満足を得ようとするのは自分に対して少しつれない態度を取ってた気がする。
 先刻、酒がなくなったので、あまり頭を使うとピリピリして眠れなくなるかもしれない。先週の頭に買った1.8ℓの紙パックに入った焼酎が、お湯割りで飲んだのにもかかわらず、なくなった。この飲酒とは別に4回の宴席があったのにもかかわらずだ。宴席を経るたびに自律神経が毀損していると思う。以前はこの感覚を退廃的に捉えて好奇に書いたこともあったけれども、単に自律神経が失調して、身体が正しく悲鳴を上げているだけなんだ。二十代は大袈裟に、そして気取るように自分の状態をを書いてたように思うけど、正直ではなかった。今は頻繁に嘘はつきたくない。だが正直なわたしに何が残っているかは、まだあまり分析していない。
 35歳で東京に来て1年半が経った。東京は凄いところだよなと、正直で、少し愚直にも見える田舎の先輩達が言う。確かになんか凄い。ここじゃないと進まないこと、気づきさえしないことも多いと思う。政治家の先生や官僚の人たちの話が職場でも聞こえてくる。田舎に帰ることになると思うと、退屈な気持ちになる。こうして一度、東京に来れてよかった。
 今の職場は籍のある会社ではなく、出向先で、全国から人が集まっている。利害関係もあるし、ドンチャン騒ぎもする。笑いに包まれながらも、互いに違う方向を向く同僚達と仕事をしている。仕事は少なく、時間に余裕もあるが、夜は宴席が多い。たまに楽しい宴席もある。そして無駄に散財する時もあって、その翌日には憂鬱になる。散財に限らず、人と飲んで酔っ払った翌日は憂鬱だ。歳を重ねるたびにその度合いが色濃くなる。記憶をなくすようになってからだろうか。酔った自分が何か暴言を吐いてないか心配になる。もっと若い頃なら暴言を吐くような人間性ではないと信じていただろうし、たまに吐いても構わない、さらには亀裂が生じてもやむなしというスタンスだったのかもしれない。今は断片的な記憶を辿っては、「だとすると、やらかしてないか?」という心配がよぎる。よくわからないまま、翌日に一応謝ることもある。
 正月の帰省の際、母の古希祝いを、叔父や従兄弟達が主催してくれた。息子としては別の機会にお祝いするので、わたしは母を会場にアテンドし、温かい空気の一人になるのが役目だったはすだが、瞬間的にストレスが多かった時期だったこともあり、ついつい飲んでしまった。主役を差し置いて酔っ払ってしまった。帰路の記憶はなく、気づいたらそのままの衣服で、実家の布団で眠っていた。やってしまった。母は少し気まずそうだった。母にも親戚にも申し訳なかった。その後LINEでやり取りする限りでは大きな粗相はなさそうだった。ごめんね母ちゃん。親戚の皆さん。
 昨日も宴席だった。明日も宴席だ。でも社会はより厳しくなっているような気がするし、少なくとも厳しく感じるようなった。というか、厳しく生きないといけなくなった。歳もあるし、軽微ながら職責をもらったこともある。大きいのは子供の成長と、それを必死で支えてくれている妻がいること。軽々しくは生きられない。自分だけが身勝手に詩想を巡らすことはできない。やるんならちゃんとしないといけない。
 状況はそれなりに理解しているらしいが、そんな状況が歯痒い。だが抗う気力も勇気もないし、抗わない方が良いと思う。昨日、わたしのことを体制派という人がいた。抗わなければ体制派になるようだ。


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