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クリエティブであるために、今こそ「街」という生きたメディアを選ぶ。

コロナによるあの「息苦しさ」とは、何なのだろうか。

「街」が遠くなり、「人」が遠くなる。

コロナ禍で起きた物理的・精神的隔離というのは、人を「街」や「人」そのものから遠ざける引力だったわけですが、どうもクリエイティブなアウトプットをし続けないといけない人種にとっては、やはりこれがもう息苦しくて息苦しくて。

刺激的な「街」や「人」から遠ざけられてしまうというのは、水面下の息苦しさというか、呼吸の質の低下というか、なんだかそんな「脳の心の窮屈感」を感じている人は決して私だけでは無いと思うんですね。

緊急事態宣言の厳格な隔離を経てから、気がついたら当然「密」を避けながらも本能的に「街」へクリエイティブな「呼吸」をしに身体を向けている自分がいました。

時代感度の塊を、身体で感じる。

単純作業のブルーワーカーはおいておいても、今を生きる人たちに何らかの価値を提供することを生業としてる上流工程のワーカーには、やはりクリエイティビティが欠かせません。

質の良い「アウトプット」のためには、質の良い「インプット」が必要なんですね。それは「呼吸」のように相互に依存しあっていて、質の良いアウトプットをしようとすると質の良いインプットを渇望する。質の良いインプットがあるほど質の良いアウトプットが溢れ出す。

ここでいう「質」というのは、「時代感度」と言い換えても良いかもしれません。「人」が「時代」を作り、「時代」という揺りかごに適度に依存しながら人々は消費し、交流し、日常を営んでいます。

そんな「時代感度」を高めるインプットを、人は基本的に「メディア」を通じて得ています。今や支配的なポジションを獲ったスマートフォンを筆頭に、デジタルメディア全盛ではありますが、天邪鬼気質の私としては、そういったシフトが起これば起こるほど、五感や身体全身で体感できるメディアに、心の飢えが向いていったんですね。

その先にあったのが、「街」だったんです。

人生は有限です。今と言う時代に、どいういう「メディア」と向き合うのか。気がついたらスマホばかりになりますから、それで本当に良いのか。そんな「メディアの取捨選択」リテラシーは、今すごく大切にしている「心のアンテナ」の一つです。

「街」という生きたメディアと向き合う。

ここで言う「街」というのは、やはり郊外や田舎の「街」ではなくて、都心の商業的中心街である「街」ですね。「街」というのは商業的な求心力を働かせて人を集める極めて優れた「装置」ですから、そこには「金とエネルギー」が重力になって、結果的にクリエイティブな人々の知恵と結晶が集結し続ける構造になっています。

下世話な「商業的」側面と、ギリギリのバランスで共存する「文化的」側面との交錯に、常に生きた人々が集まり続けることによって、都心の「街」というのはエキサイティングな「知の発散」をし続けているんですね。例えば今年の2020東京オリンピック(残念ながら来年に延期してしまいましたが)に向けて高速で駆け抜けた「渋谷」という「街」の、ここ1〜2年の猛烈な変化というのは、それはそれはもの凄いエネルギーを放っていました。渋谷ストリーム、スクランブルスクエアの新設、ランドマークである渋谷パルコや宮下公園のリニューアル。毎日のように「街」が進化し続け、一歩そこに踏み入れただけで今という時代のクリエイティビティの結晶を「建築」「商業品」「街並み」から五感で体感することができるんですね。そこに日々、人々が往来することによって「完成形」ではなく常に「生き続けるメディア」として呼吸をし続けています。これによって、他のメディアでは感じにくい「空気」が、確かにそこに存在しています。

本や雑誌は、編集されすぎている。

デジタルメディアへのカウンターとしての「街」とすると、同じように惹かれ続けている場所が「本屋」です。所狭しと並んだ「雑誌」や「本」、書店によって絶妙にキュレートされたカバーたちを、ただただ眺めながら自分の「足」と「心」で気になったタグラインを手に取ってみる。そんな営みの贅沢さは、今更声を大にして言う必要もありません。

先ほど「街」で触れたメディアとしては「本」も「雑誌」相似形で、優れたクリエイターたちの「知」の集合、今という時代感度を高める上においてはこれ以上無いパッケージだと思います。

ただ、最近感じるのは「それだけでは足りない」という感覚。「本」も「雑誌」も、なんだか編集されすぎているんですよね。もっと自分の身体で感じて、自らの「脳ミソ」をゆるやかに、時にフル回転させながらシナプスを結合させていくには、やっぱり「街」なんです。そこは、やはりメディアとしての違いで、それが「生きているか否か」ということに尽きるんですね。

「街」は常に人が行き交い、「街」がシチュエーションとして存在する上に主役の「人」が乗っかってきます。もちろん自分もそんな配役の一人。自らの足で歩き、「心」が呼ぶ方向へ足や手を向けてみる。誰かと話したり、誰かに話かけられたり。片手には最新のロースタリーによるコーヒーと、街の雑踏をBGMに。そうやって、まるでミルフィーユのように、オーケストラのように何層にも重なった「今」という時代が、その時々の自分だけの音楽を奏で続けている中に身をおきながら、とにかく五感で感じ続けること。リー先生に言わせれば「Don't Think, Feel!」な世界です。

物理的隔離のリスクと向き合い続けること

リモートワーク拡大による生産性の向上は喜ぶべき進化でしょう。何事もそうですが、何かを引っ張ると、何かが凹むんです。物理的な隔離による生産性の向上には、同時にクリエイティブの観点で大きなリスクを孕んでいると思います。誰もがそうしろとは思いませんが、自らに「クリエイティブなタスク」を課しているならば、リモートワーク時代には意識的に「街」へ出てクリエイティブなエネルギーに浸ることが必要だと思うんですね。

コロナ禍で引き続き「街」のあり方が揺さぶられています。リスクもあれば世論もあるので、下手な言い回しはできないけれど、人類は隔離されればされるほど、揺り戻しとして「街」を渇望する。外気浴ならぬ、「街気浴」がクリエイティブであり続けるために、求められていると思います。

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