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腐葉土になりたい。 〜生きづらい人は、みんな生物学に癒やされればいい

この世の中は生きづらいという言い方がよくされるけれども、そのなかでも特に生きづらい人たちがいる。

この記事は、そんな人を生物学の世界へ優しく誘うための記事です。

強いて言うなら、大学の「生物哲学研(ちょっと微生物寄り)」の新歓みたいなノリです。特に新しい知識は得られないのでご了承ください。

みんなみたいに「ふつうに」体調のいい日がデフォルトやったらいいのにな。
「ふつうに」オフィスとかで働けたらいいのにな。
「ふつうに」友達関係を楽しめたらいいのにな。

決して、みんなが何のストレスもなくできているわけではないのかもしれないけれど、少なくともまぁできている。

私はそういうことが器用にできない勢で、すさまじい自己否定感や無力感に苛まれることが今でもたまにあります。
(いや、仕事はできるが通勤電車臭い問題とかオフィスの閉塞感とかが無理で…あと、ノルマとかも無理で…あと、飲み会も無理で…あと、コミュニケーションを取る目的だけの会議も無理で…あと、会社勤めって資源を無駄遣いしている気がして無理で…あと、テレビもネットもほぼ見ないので雑談の話題もなく…あと、休まらないのでランチは誘わないでほしい…あと、職場寒い…)

自分のことを繊細な人と呼ぶのは小っ恥ずかしくてためらわれるけど、あらゆる刺激に対して心身がオーバーリアクションするタイプです。(ただわがままなだけかもしれんけど)

天気や季節や月経に振り回される自分の心身にも、すっかり疲れてしまったり。

私はみんな、みんなは私

あるとき、私は思ったのです。「腐葉土になりたい」と。
森で死んで、腐って分解されて、土に還っていきたいと。

しばらくその思いに取り憑かれて死海に旅立つか迷ったあとに、「でも私だって生物学的にはすでに腐葉土なんだ」と思ったのです。

つまり、私は毎日排泄し、フケを落とし、ご飯を食べ、肉体はどんどん入れ替わっているということ。
原子のレベルでは、私はあくる日に腐葉土になり、またあくる日には「他の誰か」になっているわけです。

あれ、私が私と思っていた対象って、実はけっこうぼんやりしているのではないかな。
そんな思いが、自己というものへのこだわりを和らげてくれた気がしました。

大きな海の中でプカプカ浮かんでいるような、そんな楽ちんな気分になれたんです。

「わたし」ってなんだろう

でもやっぱり、私というものは厳然と存在しているように見えます。

個体として、人格として、生物学的にも社会的にも「わたし」というのはやっぱり他と区別される何かである気がして、私は落ち着きませんでした。

そこで出会ったのが、微生物。
微生物の存在は、17世紀にとある顕微鏡オタクの人が見つけて以来、様々な形で知られてきました。

お酒やパンを作ったり、水の中にいたり、恐ろしい病原性を持ったり。

私はほんとうにラッキーな時代に生まれたと思うのですが、30年前くらいから微生物が予想外にいっぱいいることがわかってきました。具体的には、予想していた100倍以上の種類がいることがわかってきたと。

私たちの体には何十兆もの細菌が暮らしていて、その他の微生物も合わせるともっといて、
しかも彼らが私たちの体の細胞といろんな仕事を分担することで私たちがいる、というようなことまでわかってきています。

さらに、私たちが触れる環境も、微生物で溢れている。

私はなんだか、私という存在の責任を自分だけで背負わなくていいような、そんな気分になりました。

微生物と私は、ニコイチというか、微生物が私といっても過言ではないというか、なんなら細胞も最初は微生物で、2つの微生物が合体して私らができて…(うにゃうにゃ)

よし、この道に進もう。
生物は高1くらいの時に選択しないことを決めてから、ほぼすべての知識が消え去ってるけど(そして私は経営学部に進んだ)、
勉強くらいなんとかなる! 微生物がいないと、私の人生詰む!

微生物とのはじまりは、こんなふうでした。
それから何年か事務職を経て、晴れて去年から研究職1年生。

原子もみんなと共有しているし、私という個体にも微生物がいるし、私は自分の意識と外界の境界線をどんどん薄くして、なくしていきました。

でもやっぱり大事な、自分と外界の境界線のこと

そうこうしているうちに、また息が詰まってきました。
そう、私は境界線を溶かしすぎたのです。

私は自分の存在を一人で背負わなくていいようになった代わりに、いつの間にかなんだか全世界の責任がふりかかってきたみたいな気分になっていました。

大げさにいうと、戦争も、誰かが泣いているのも、税金の無駄遣いも、環境問題もぜーんぶ自分のせいみたいに思えてくる。

そこでまた助けてくれたのは、生物学でした。

私たちの細胞は、脂質二重膜という膜で区切られていて、ちゃんと外界と自分を分けています。
でも決して自分の殻に閉じこもっているわけではなくて、外とやり取りをしています。

ただ膜のドアを開けて流れるがままに物質を受け取るのことを受動輸送、あえてエネルギーを使って流れに逆らう方向に送ることを能動輸送と呼びます。

物質のやり取りだけではなく、情報のやり取りもします。
膜の上に受容体という受付窓口みたいなのがあって、そこでほしい情報をキャッチしています。
膜を7回貫通しているGタンパク質共役型受容体なるものを教科書で学んだときは、その複雑さに驚きました。

私、無責任に自分を委ねすぎていたわ。
そんな世界って、ただただエントロピーがどんどん増大して、すべてがドロドロのスープになっちゃうだけなんだわ。
生命っていうのは、外とやり取りしながら、自分という軸や境界もしっかり持っていることなんだわ。

私の勉強ライフは、こんなふうにすぐに感傷的になりがちです。
ボヘミアン・ラプソディでも泣きますが、細胞分裂の動画でも泣けます。

そしてこれから、微生物も学びつつ、マクロ生物学の分野にも足を突っ込んでいく予定でおります。
このnoteも、いつか「微生物を学ぶ」から「ゲノムを学ぶ」くらいのでかい領域をカバーするようになるかもしれません。

ね、あなたも生物学に癒やされてみませんか?

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