「竿頭進歩(百尺竿頭)」の公案

『無門関』第四十六

石霜和尚云、「百尺竿頭、如何進歩」
又古徳云、「百尺竿頭坐底人、雖然得入未為真。百尺竿頭、須進歩。十方世界現全身」

石霜和尚が言った。「百尺の竿のてっぺんにいるとき、どのようにしてその先に進むのか」
また、昔の徳ある人が言った。「百尺の竿のてっぺんに坐っている人は、ある程度の納得は行っていても、いまだ真理にはたどりついていない。百尺の竿頭にあっては、かならず先に進まなくてはならない。世界の中において全身であらわれなくてはならない」

百尺というと、約三〇メートル。7~8階建てのビルの高さだそうです。
もちろんこれはたとえです。
長い長い竿のことです。
これを登るには大変な苦労がともないます。
百尺の竿は「今までの努力」ととらえればいいでしょう。
仏教全体で言うと、祖師や高僧の思索の集大成のことです。
そこに安住している人は、ある程度の納得は行っていても、仏教が自分のものとなりきってはいない。祖師や高僧の思索の集大成は、いずれは捨てて自分の考えを持たなくてはならないのです。
そして、世界の中に飛び出していけ、という教えです。

百尺竿頭から飛び出すのですから、当然、落ちて死ぬこともあるでしょう。それは物理的な死ではなく社会的な死かもしれません。しかし、真理を得るためには、故人の言葉を担ぎ回るのではなく、一歩先に進んで己の見解を確立し、世界に問わなくてはならないのです。



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