「趙州狗子」の公案

犬に仏性があるか、という有名な公案です。
「じょうしゅうくし」と読み習わされています。
『無門関』の第一に挙げられており、いわば入門の第一関門です。

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趙州和尚、因僧問。
「狗子還有仏性也無」
州云「無」

趙州和尚がある僧に問われた。
「犬にもまた仏性があるでしょうか、それとも無いでしょうか」
趙州は言った。「無い」
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ヒントです。
突然、修行中の弟子に「犬に仏性はあるでしょうか?」と聞かれた、あなたはどう答えますか?

……そういうことです。「お前はアホか。そんな事を考えとる暇があったら、自分の仏性を磨け」となるでしょう。


趙州和尚が「有り」と答えたという話もあります。

宏智禪師廣錄』巻二にはこうあります。

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舉。僧問趙州。狗子還有佛性也無。州云有。僧云。既有。為什麼却撞入這箇皮袋。州云。為他知而故犯。又有僧問。狗子還有佛性也無。州云無。僧云。一切眾生皆有佛性。狗子為什麼却無。州云。為伊有業識在。

公案です。僧が趙州にたずねた。「犬にもまた仏性がありますか、無いですか」趙州「ある」僧「すでにあるのならどうして犬の肉体に突き入れられたのですか」趙州「知っていてあえてそうしたのだ」またある僧がたずねた。「犬にもまた仏性がありますか、無いですか」趙州「無い」僧は言った。「一切衆生にはみな仏性があります。犬にはどうしてないのですか」趙州「そいつに業識性があるからだ」
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犬に仏性がある=仏になる可能性がある、ということですから、犬の肉体に転生しても不思議はありません。ですが、自分の仏性を自覚しつつ、あえて犬の肉体に入るとは何とも不思議な話です。普通なら、人や天に転生したいと思うところでしょう。

業識性とは「惜しい、欲しい、憎い、かわいいなどという迷いの性質」(臨済宗大本山 円覚寺)とされています。臨黄ネットではもっと端的に「業識性は迷いだ」と指摘しています。

我々にもこういった「迷いの性質」はありますから、すると全ての人間に仏性がないということになります。

文字通り読むと業識性とは「自分の行為(業)を識る性質」ということになります。犬は、悪いことをしたと思ったらごまかそうとします。これもまた我々にある性質です。では、「自分の行為を識る性質」がなければ、より悟りに近いのでしょうか。


『法演禪師語録』巻中にはこうあります。

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上堂云「狗子還有佛性也無。也勝猫兒十萬倍」下座

上堂して言った。「犬にもまた仏性があるか無いか。あるいは猫よりも十万倍まさるか」そして座を下った。
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『大慧普覺禪師雲居首座寮秉拂語録』巻第九にはこうあります。

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五祖道 趙州狗子無佛性。也勝猫兒十萬倍。如何。
僧云。風行草偃。
師云。爾也不亂説。却作麼生會。
僧無語。
師云。學語之流。便打出。

五祖は言った。「趙州の犬には仏性は無い。それでも猫には十万倍まさる。どういうことか」
僧「風が動き、草がたおれる」
五祖「そなたの言うことは筋が通っている。戻ってどのように生かす」
僧は無言だった。
五祖「言葉を学んだ流儀だな」そしてたたき出した。
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「風行草偃」はなかなかいい答えだと思います。
「そんなの関係ねぇ」という感じでしょうか。
ここで座禅でも組んで見せれば五祖も納得したでしょうが、言葉を失って(言葉にとらわれて)しまった。そこでたたき出されたというわけです。


さて、ここで質問です。
犬に仏性はありますか? 猫の十万倍もましなんてことがあり得ますか?


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