一水四見

一水四見という言葉がある。
日本語変換の単語には登録されていないので、仏教界でしか使わない熟語のようだ。
ググってみればすぐわかることだが、唯識の物の見方で、認識の主体によって認識の対象も変化することを例えた言葉である。

『瑜伽師地論』の言葉が出典だという説もある(未確認)。

「一水四見」の意味はこうだ。
人間から見れば透明な水の流れる河も、天人から見れば水晶の床、魚にとっては自分の住みか、餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れに見える。

さすがに、同じ一つの水(川)の見え方が違うと言ってもわかりにくいと思ったのだろう。わかりやすく解いた古歌が伝えられている。

「手を打てば、鳥は飛び立つ鯉は寄る、女中茶を持つ、猿沢の池」

同じ猿沢の池にあって、手を叩く音に対して、鳥は追い立てる脅威の音、鯉は餌を与える至福の合図、女中さんは座敷に茶を持っていく仕事の合図、とそれぞれが違った解釈をする、という歌である。

我々は、五感から入る情報を、無意識のうちに取捨選択して取り込んでいる。そうしないと、脳が過負荷になって疲弊してしまうだろう。だから同じSNSに対しても、おいしいご飯と可愛い動物の画像と碩学碩徳の話だけを選んで摂取していたらそこは極楽になる。逆に、論争や決めつけ、誹謗中傷を選んで摂取していたらそこは地獄になる。

我々はみずから極楽と地獄を作り出している。

さて、ここで如来の物の見方「如実知見」の立場から再考してみよう。

如来(という理想人格)には、水を見たときの人、天、魚、餓鬼の見え方が、すべて一瞬にしてわかるのである。手を打つ音に対する、鳥、魚、女中の聞き方についても同様だ。

さすがに我々は如来様のようにはなれない。

しかし多少なりとも、物の見方、聞き方の違う人に配慮して何かを発信することはできるのではなかろうか。

……などと思った次第である。

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