なぜ人々は釈尊の足に頭をつけるのか

令和2(2020)年11月4日のツイートから再編集しています。

現在、吹田の国立民族学博物館では「先住民の宝」展をしています。その中にネパール西部のマガール人のコーナーがあり、彼らが1998年に仏教徒宣言をしたという話がありました。彼らは山地や農村の民で、ヒンドゥー教とカースト制、バフン(ブラーフマン)からの離脱を呼びかけています。

マガール人と言ってもピンと来ないでしょうが、彼らはグルカ兵として有名です。「英国に名を馳せ、王国をもっていたマガールが、バフンが来たら、爪がこれくらい長く伸び牛糞がついたバフンの足に額をつける」……『賢愚経』の大王がバラモンに額づいた姿そのままです。

解説にはこうありました。ヒンドゥー教の浄・不浄の観念から、菜食で飲酒もしないバフンを高貴なものと崇め、バフンの生活習慣を見習って自らも聖なるものに近づこうとするマガールの精神を批判したのだ、と。……仏教にも似た精神があるんじゃないか、とか思います。

菜食で飲酒もしない人を、戒を守っているからと言ってあがめる。果たしてその人は本当に悟り、人々に法を説いているのでしょうか。

そして、仏典に描かれた、釈尊の足に額をつけて礼をする人々は、ブラーフマンに対するヒンドゥー教徒にそっくりです。一方で、カーストの高い人々は釈尊の隣に坐って「我が友ゴータマよ」「釈迦族の子よ」と呼びかけたり、『仏般泥洹経』の鍛冶師の子、淳などは、小机を持ってきて差し向かいで話しています。

結局、多くの人々はバラモン教/ヒンドゥー教的なるもののくびきから解き放たれぬまま、現代にその崇拝の枠組みを持ち越しているのではないかと思うのです。




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