長阿含経巻第五 闍尼沙経

仏説長阿含第一分、闍尼沙経第四

 このように聞いた。仏が那提揵稚住処(Giñjakāvasatha/ギニジャカーヴァサタ/深谷精舎)に、大いなる比丘たち千二百五十人とともにいたときのこと。
 尊者阿難は静室に坐して、如来が授記し多くの人に利益(りやく)を与えたことがはなはだ奇特であると考えていた。
〈かの伽伽羅(カカラ)大臣は命終って如来が授記した。この人は命が終るときに五下結(有身見・戒禁取・疑・貪欲・瞋恚)を断ち、天上にうまれかわって滅度をとり再びこの世に来る事はなかった。
 第二に迦陵伽、三に毘伽陀、四に伽利輸、五に遮楼、六に婆耶楼、七に婆頭楼、八に薮婆頭、九に他梨舎㝹、十に薮達梨舎㝹、十一に耶輸、十二耶輸多楼といった大臣たちも、命の終りにあたって仏が同様に授記した。
 また、五十人の命終にあたって、仏は三結(有身見・戒禁取・疑)を断ち婬・怒・痴が薄れたとして斯陀含(二果)の授記をした。一度この世に来て苦しみが尽きると。
 また五百人の命終にあたり、三結が尽きて須陀洹果(初果)が得られ悪趣に堕ちないと授記した。七たびの転生で必ず苦が尽きるとした。
 仏弟子はあちこちで命を終えているが、仏は皆に授記をした。なにがしはどこに生れかわったと。
 鴦伽国、摩竭国、迦尸国、居薩羅国、抜祇国、末羅国、支提国、抜沙国、居楼国、般闍羅国、頗漯波国、阿般提国、婆蹉国、蘇羅婆国、乾陀羅国、剣洴沙国。それらの十六大国で命を終えた者に、仏は悉く授記した。
 摩竭(マガダ)国の人は皆、王の種族で王が親しく任じた者であった。命を終えた者に仏は授記しなかった〉

 この時、阿難は静室から世尊の所に行き、頭を足につけて礼をし、端に坐った。そして仏に言った。
「私は静室でこれらのはなはだ奇特なことについて、思索しました。仏が授記した人に多くの利益をめぐらせたことについて。十六大国で命終した者に、仏は悉く授記しました。ただマガダ国の人で王に親任された者は授記の利益を受けていません。願わくば世尊、かれらに授記したまえ。願わくば世尊、かれらに授記したまえ。利益をめぐらせて一切の天人に安らぎを得させたまえ。
 マガダ国で得道した者は命終しても授記をなさっていません。願わくば世尊、かれらに授記したまえ。願わくば世尊、かれらに授記したまえ。
 またマガダ国の缾沙(ビンビサーラ)王は優婆塞で仏を篤信していました。多くの供養をし、その後に命を終えました。王は多くの人に信解させ、三宝を供養させました。今、如来は授記をなさっていません。願わくば世尊、彼に授記したまえ。利益をめぐらせて一切の天と人に安らぎを得させたまえ」
 阿難はマガダの人のために世尊にすすめ請い、座より起って礼をし、仏の前をしりぞいた。
 世尊は衣をつけて鉢を持ち那伽(ナーガ)城に入ると、乞食を終えて大林の一樹の下に坐してマガダ国の人の転生先を見た。

 時に仏の近くに一人の鬼神がいて、名を闍尼沙(ジャナヴァサバ)と自称していた。
 ジャナヴァサバは世尊に言った。
「私はジャナヴァサバです。私はジャナヴァサバです」
仏「そなたはどうして己れの名をジャナヴァサバと自称するのだ」
 ジャナヴァサバとは、秦の言葉では「煩悩に勝った者」である。
仏「そなたはいかなる法によって自ら道を見た者と言うのか」
ジャナヴァサバ「他でもない、私は元々、人の王でした。如来の法の中の優婆塞だったのです。一心に念仏(※この場合は観相念仏のこと)をして命を終えました。そして毘沙門天王の太子に生れたのです。これによって、いつも諸法に明るくいられました。須陀洹(初果)にあって、悪道には堕ちませんでした。七生のあいだ、ずっとジャナヴァサバと名乗ってきました」

 時に世尊は大林の樹下をたち、深谷精舎に行って座についた。そして一人の比丘に「阿難を呼んで来なさい」と言った。
 阿難は来ると世尊の足に頭をつけて礼をし、隅に控えてから言った。
「今見るに、如来の顔色はいつもよりよく、落ち着いておられるようです。何を思って顔色がよくなられたのでしょう」
世尊「そなたはマガダ国の人について授記を請うた。あのあと乞食をして樹下にすわり、マガダ国の人の来世について思惟した。するとジャナヴァサバという鬼神があらわれた。阿難よ、そなたはジャナヴァサバの名を聞いたことがあるか」
阿難「聞いたことがありません。今聞くに、なんとも怖しく身の毛がよだつようです。世尊、この鬼神にはさぞかし大威徳があるのでしょう。それゆえにジャナヴァサバと名乗ったのでしょう」
仏「私もまずそれをたずねた。どうして見道などと名乗るのかと。ジャナヴァサバは言った。昔、自分は人の王で世尊の弟子になった。篤信から優婆塞となり、一心に念仏して、命終の後は毘沙門天王の子になり、須陀洹として七たび転生して苦はつきた。七生中いつもジャナヴァサバと名乗ってきた、と。ジャナヴァサバは言った」

 天の千輻輪の宝車に乗って、毘楼勒天王(増長天)の所にちょっと行く用事があり、遠くから世尊が樹下にいるのを見かけたのです。その顔は端正で落ち着いていました。たとえるなら深い渕が澄んで静かで清く明るいようなものです。
 そこで思いました。
〈今、行って世尊にたずねよう。マガダ国で命終をむかえた人はどこに生まれかわったのでしょう、と〉
 かつて毘沙門王は皆の中で偈をもって説きましたた。

我等不自憶 過去所更事
(我等は覚えていない 過去とどうかわったのか)
今遭遇世尊 寿命得増益
(今、たまたま世尊と遭い 寿命が利益によって伸びた)

 忉利天の神々はささいな用事でつどいました。
 四天王は各位置に坐りました。
 提頭頼吒(だいずらた/持国天)は東方に西を向いて坐りました。帝釈天を前にして。
 毘楼勒叉(びるろくしゃ/増長天)は南方に、毘楼博叉(びるばくしゃ/広目天)王は西方に、毘沙門天王は北方に、それぞれ帝釈天を前にして。
 四天王が坐り終えると、私も坐りました。その他の大神たちも坐りました。皆、先に仏の所で梵行を浄修し、命終えて忉利天に生れた者たちです。
仏の利益によって諸天は天の五福を受けました。
 一、天寿。二、天の容貌。三、天の名称。四、天の楽しみ。五、天の威徳。
 忉利天の神々は、皆、踊躍歓喜して言いました。『神々の力は増し、アシュラの力は弱まった』と。
 帝釈天は、忉利天の神々の歓喜する心を知り、頌を作って歌いました。


忉利諸天人 帝釈相娯楽
(忉利天の神々は 帝釈天とともに楽しんだ)
礼敬於如来 最上法之法
(如来に礼をし敬うのだ 最上法の法に)
諸天受影福 寿色名楽威
(神々はその福を受けた 寿・色・名・楽・威について)
於仏修梵行 故来生此間
(仏のもとで梵行を修めたことで ここに生を受けたのだ)
復有諸天人 光色甚巍巍
(また神々はありて 光り輝く)
仏智慧弟子 生此復殊勝
(仏の智慧に育てらられた弟子は この素晴らしい世界に生れたのだ)
忉利及因提 思惟此自楽
(忉利天の神々と帝釈天が この自らの楽しみを思い)
礼敬於如来 最上法之法
(如来に礼をし敬うのだ 最上法の法に)


 そして忉利天の神々で法堂に集まった者は、ともに教えを議論し思惟し観察し量った。そして四天王に命じ、いるべき場所に坐らせ、大いなる異光で四方を照らさせた。
 忉利天でこの異光を見た皆は、大いに驚愕した。今のこの異光はいかなる怪奇現象かと。その他の威徳ある大神天たちも皆、驚き怪しんだ。今のこの異光はいかなる怪奇現象かと。
 大梵天王は頭に五角髻のある童子に変身して、天たちの上空に立った。
 顔だちは端正にしてみなをぬきんで、身は紫金色にして天たちの光をかすませた。
 しかし忉利天の神々は、立って迎えず、恭敬のそぶりもなく、坐るようすすめももしなかった。
 梵童子は適当なところに座をこい、座するとみなに喜びがうまれた。
 たとえるなら、水澆頭種のクシャトリアが、王の即位の時に踊躍歓喜するように。

※「水澆頭種」とは、国王が即位するときの灌頂儀式を伝える王族のこと。

 梵童子はすぐに変身して童子像となり、神々の上の空中に坐った。たとえるなら、力士がどっかりと坐って動かないようなものである。
 そして頌を作り歌った。


調伏無上尊 教世生明処
(心を調伏した無上尊 世を教え明るいところに生れかわらせる)
大明演明法 梵行無等侶
(明法を大いに明らかにしてのべ 梵行は並ぶ者なし)
使清浄衆生 生於浄妙天
(清浄なる衆生を 浄妙なる天に転生させる)

 梵童子は忉利天に告げた。その声は五種の清浄なる梵声であった。何を五種と言うのか。
一、その音は正しく直い。
二、その音は調和して雅。
三、その音は清く澄み通る。
四、その音は深く満たされている。
五、遠くまであまねく聞こえる。
 この五つをそなえる音を梵音というのだ。

梵童子「今、さらに説こう。汝等、善く聴け。如来の弟子のマガダ国の優婆塞が命を終えた。あるものは阿那含(三果)、ある者は斯陀含(二果)、ある者は須陀洹(初果)である。他化自在天、化自在天、兜率天、焔天、忉利天、四天王の世界へと生れかわった。あるいは、クシャトリア、バラモン、居士、金持ちで五欲がほしいままにできる者にである」
 梵童子は偈頌を歌った。


摩竭優婆塞 諸有命終者
(マガダ国の優婆塞で 命を終えた者たちは)
八万四千人 吾聞倶得道
(八万四千人 私は聞いた、ともに道を得たと)
成就須陀洹 不復堕悪趣
(初果をなしとげた者は 二度と悪趣に堕ちない)
倶乗平正路 得道能救済
(ともに平らな正しい道を行き よく救済をする)
此等群生類 功徳所扶持
(彼らは 功徳に支えられて)
智慧捨恩愛 慚愧離欺妄
(智慧あって恩愛を捨て 慚愧していつわりを離れる)
於彼諸天衆 梵童記如是
(かの天の人々は 梵童子が言ったとおり)
言得須陀洹 諸天皆歓喜
(初果を得たのだ 諸天は皆、歓喜した)


 毘沙門王はこの偈を聞いて、歓喜して言った。
「世尊が世に出て真実の法を説きました。とても素晴しく未曽有のことです。私は元々、如来が世に出てこのような法を説くとは知りませんでした。
未来の世にもまた仏がいて、このような法を説き、忉利天の神々を歓喜させるのです
 梵童子は毘沙門王に言った。
「そなたはどうしてそのようなことを言うのか。如来は方便力をもって善不善を説いた。説法を終えても得るものはなかった。空浄法について説法してはじめて得るものがあったのだ。この法は微妙にして醍醐(乳製品)のようなものだ」
 梵童子はまた、忉利天の神々に告げた。
「汝等、よく聴きよく思うのです。そなたらのためにさらに説こう。
 如来は真の善に至り、よく四念処を分別して説いた。
 何を四というのか。
一、内身観。精勤してなまけず、専心して世の憂いを除くことを忘れない。
二、外身観。精勤してなまけず、専心して世の憂いを除くことを忘れない。
三、受意法観。これも同じ。精勤してなまけず、専心して世の憂いを除くことを忘れない。
内身観がおわれば他身智が生じる。

内観受がおわれば他受智が生じる。
内観意がおわれば他意智が生じる。
内観法がおわれば他法智が生じる。
これによって如来はよく四念処を分別して説けるのである。

※原文
内觀受已生他受智。
内觀意已生他意智。
内觀法已生他法智。
是爲如來善能分別説四念處。

この項、大変わかりにくいのですが、自分の中の「受(インプット)→意→法」がわかれば他者のそれについても理解できる、
これを「受意法観」と言う、ということのようです。
なお、一般の「四念処」の解説では「不浄観」「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」とされ、ここで書かれている「他」への観点がなく、
何か違うことについて説いているように思えます。

 次に諸天よ、よく聴くのだ。
 如来は七定具についてよく分別して説いた。その七つとは、
「正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念」である。
これが如来が分別して説いた七定具である。

※「八正道」は
「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」で、ここでは最後の「正定」が入っていません。

 次に諸天よ。如来は四神足についてよく分析して説いた。その四つとは、
一、欲定。滅行すれば成就する神足を修習すること。
二、精進定。滅行すれば成就する神足を修習すること。
三、意定。滅行すれば成就する神足を修習すること。
四、思惟定。滅行すれば成就する神足を修習すること。

 これが如来が分別して説いた四神足である。

※「四神足」は一般には
欲神足 - 意欲によって得られる神通力
勤神足 - 努力によって得られる神通力
心神足 - 善心によって得られる神通力
観神足 - 思惟観察によって得られる神通力
 とされています。
原文では、四つとも「滅行成就修習神足」と書いてあって意味がよくわかりません。一般の「四神足」で補って理解して下さい。

 また諸天よ。過去の沙門やバラモンは無数の方便として数限りない神足(神通力)を現してきたが、これは皆、四神足から発生した。これからもそうだ。今現在の沙門やバラモンもそうだ」
 梵童子は自ら変化して三十三身をあらわし、三十三天の神々の前にそれぞれ坐った。そして告げた。
「そなたは今、我が神変力を見たであろう。我もまた四神足を修行したえにこのような無数の変化ができるのだ」
 三十三天の神々は思った。
〈今、梵童子はひとり我が前に坐ってこの話をしている。彼の梵童子が化身して私を教化し語っているのだ。その化身が黙れば他の化身もまた黙る〉
 梵童子は神足通をおさめて帝釈天の前に坐った。そして忉利天の神々に告げた。
「私は今、説かねばなるまい。善く聴きなさい。如来は真に至り、自己の力で正覚にいたる三径路を開いた。
 その三つとは何か。

 ある衆生は不善行に親しみむさぼろうとする。その人がその後、善知識に親しみ法を聞き法を語れば法は成就する。そこで不善行を捨てるのだ。歓喜心を得て恥じることなく楽しくなる。また、楽の中に大いなる喜びを得る。人が貧しい食を捨て百味の飯を食べるようなものだ。食が充足してさらにすぐれた物を求める。行者とはそういうものだ。不善法を離れれば歓喜の楽しみが得られる。その楽しみの中に大いなる喜びが生れる。そのため、如来は自己の力で最初の道を開いて最正覚となった。

 衆生には多くの怒りがある。捨身もせず口意悪業をなす。その人も後に善知識にあって法を聞き法を語れば、法が成就する。身から悪行、すなわち口意の悪行が離れるのだ。歓喜心がうまれ恥じることなく楽しくなる。その楽の中からも大いなる喜びがうまれる。人が貧しい食を捨て百味の飯を食べるようなものだ。食が充足してさらにすぐれた物を求める。行者とはそういうものだ。不善法を離れて歓喜楽を得る。その楽の中からまた大いなる喜びがうまれる。このようにして如来は第二の径路を開いた。

 また衆生は愚かで無智で善悪を知らない。如実に苦習尽道(苦集滅道/四諦(したい)のこと)を知ることができないのだ。その人が後に善知識にあって法を聞き法を語れば、法が成就する。善不善を如実に知り苦習尽道を知る。不善行を捨てて歓喜心がうまれ恥じることなく楽しくなる。その楽の中からも大いなる喜びがうまれる。人が貧しい食を捨て百味の飯を食べるようなものだ。食が充足してさらにすぐれた物を求める。行者とはそういうものだ。不善法を離れて歓喜楽を得る。その楽の中からまた大いなる喜びがうまれる。このようにして如来は第三の径路を開いた」

 梵童子は忉利天でこの正法を説いた。
 毘沙門天王もまた眷属のためにこの正法を説いた。
 ジャナヴァサバ神もまた仏の前でこの正法を説いた。
 世尊もまた阿難のためにこの正法を説いた。
 阿難もまた、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷のためにこの正法を説いた。
 この時、阿難は仏の説くことを聞いて、歓喜してうけたまわったのだった。
 仏説長阿含経、巻第五、おしまい。

※「食が充足してさらにすぐれた物を求める。行者とはそういうものだ」という言葉、一見すると貪欲のようにも思えます。ただ、仏道修行への意欲が湧くたとえとしてはわかりやすいですね。

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