釈昶空(ねこにゃん)

未公認宗派・理宗の僧侶です。 お経と向き合う日々です。noteでは、ツイッターでぽつぽ…

釈昶空(ねこにゃん)

未公認宗派・理宗の僧侶です。 お経と向き合う日々です。noteでは、ツイッターでぽつぽつと翻訳してきたお経のまとめを掲載したいと思います。底本には「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2018」を使用しています。

記事一覧

長阿含経巻第六 転輪聖王修行経

仏説長阿含 第二分 転輪聖王修行経第二  このように聞いた。仏が千二百五十人の比丘とともに摩羅醯(マケイラ?)国で人をさがして遊行していたときのこと。 しばらくして…

長阿含経巻第六 小縁経

仏説長阿含経巻第六  後秦の弘始の年、仏陀耶舎と竺仏念が訳す 第二分初 小縁経第一  このように聞いた。  仏が舎衛国の清信園林の鹿母講堂に、大比丘衆千二百五十人…

長阿含経巻第五 闍尼沙経

仏説長阿含第一分、闍尼沙経第四  このように聞いた。仏が那提揵稚住処(Giñjakāvasatha/ギニジャカーヴァサタ/深谷精舎)に、大いなる比丘たち千二百五十人とともにい…

長阿含経巻第五 典尊経

仏説長阿含経巻第五  後秦の弘始の年、仏陀耶舎と竺仏念が訳した。 第一分 典尊経第三 ※『長阿含経』巻第五のPart1、全体を通しては三番目のお経です。 ちなみに、『…

『稲荷心経』のこと

『稲荷心経』とは、日本で撰述されたお経です。 これが大乗仏教の精髄をわかりやすくかつ端的に記しているので、私は根本経典として毎日お唱えしています。短いお経ですの…

大本経から見た釈尊伝の謎

 我々仏教徒によく知られた釈尊伝。  しかし、『長阿含経』の巻第一「大本経」を読むと、釈尊伝として知られたことがビバシ仏の伝記として記されていることがわかります…

一水四見

一水四見という言葉がある。 日本語変換の単語には登録されていないので、仏教界でしか使わない熟語のようだ。 ググってみればすぐわかることだが、唯識の物の見方で、認識…

長阿含経巻第一 大本経

 後秦の弘始の年、仏陀耶舎が竺仏念とともに訳した。  第一分初・大本経第一  このように聞いた。  仏が舎衛国の祇樹花林窟に大比丘衆千二百五十人とともにいた時の…

長阿含経 序

 長安の釈僧肇が記述した  それ、極みをつかさどる者は言う、賢聖はこれにあたっては黙るのみと。しかるに玄旨は言葉にしなければ伝わらない。釈迦が教えに至ったから、…

「瓢箪鯰」の公案

室町幕府の四代将軍・足利義持は、ある時「丸くすべすべした瓢箪で、ぬるぬるした鮎(なまず)を抑え捕えることができるか」という公案を思いつきます。さっそく、画僧の如拙…

小僧の神様

志賀直哉の短編に『小僧の神様』があります。 専修学院時代に授業で触れられていたので、その時に思ったことを元に書きます。 仙吉はハカリ屋の小僧です。 若い貴族院議員…

「竿頭進歩(百尺竿頭)」の公案

『無門関』第四十六 石霜和尚云、「百尺竿頭、如何進歩」 又古徳云、「百尺竿頭坐底人、雖然得入未為真。百尺竿頭、須進歩。十方世界現全身」 石霜和尚が言った。「百尺…

「鐘声七条」の公案

『無門関』第十六  雲門曰、世界恁麼廣闊。因甚向鐘聲裏披七條。  雲門禅師が言った。「世界はどうしてこうも広いのか。どうして鐘が鳴ったら七条袈裟をまとうのか」 …

仏般泥洹経巻下

 西晋の河内の沙門、白法祖が訳す  仏は阿難や比丘たちとともに、華氏国の淳の家からクシナガラ国に向かった。クシナガラで仏は病にかかったと言い、道に坐りこんで阿難…

仏般泥洹経巻上

 西晋の河内の地の沙門白法祖が訳す。    このように聞いた。仏が王舎国の鷂山(霊鷲山)に千二百五十人の比丘とともにいた時のこと。  マガダ国王の阿闍世(アジャータシ…

なぜ人々は釈尊の足に頭をつけるのか

令和2(2020)年11月4日のツイートから再編集しています。 現在、吹田の国立民族学博物館では「先住民の宝」展をしています。その中にネパール西部のマガール人のコーナーが…

長阿含経巻第六 転輪聖王修行経

仏説長阿含 第二分 転輪聖王修行経第二
 このように聞いた。仏が千二百五十人の比丘とともに摩羅醯(マケイラ?)国で人をさがして遊行していたときのこと。
しばらくして摩楼(マートゥラー)国についた。
 この時、世尊は比丘たちに告げた。
「そなたらはまさに自を灯火とし、法を灯火とし、他のものを灯火とすべきではない。自らに帰依し、法に帰依し、他に帰依してはならない。
 どのような比丘を、自らを灯火にし法

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長阿含経巻第六 小縁経

仏説長阿含経巻第六
 後秦の弘始の年、仏陀耶舎と竺仏念が訳す

第二分初 小縁経第一
 このように聞いた。
 仏が舎衛国の清信園林の鹿母講堂に、大比丘衆千二百五十人とともにいたときのこと。
 二人のバラモンが堅く信じて仏の所に行き、出家・学道した。名は婆悉吒(バシッタ)と婆羅堕(バラダ)といった。
 ある時、世尊が静室から出て講堂を周回して経行(きんひん/坐禅や読経の間に立って歩きまわる行)をして

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長阿含経巻第五 闍尼沙経

仏説長阿含第一分、闍尼沙経第四

 このように聞いた。仏が那提揵稚住処(Giñjakāvasatha/ギニジャカーヴァサタ/深谷精舎)に、大いなる比丘たち千二百五十人とともにいたときのこと。
 尊者阿難は静室に坐して、如来が授記し多くの人に利益(りやく)を与えたことがはなはだ奇特であると考えていた。
〈かの伽伽羅(カカラ)大臣は命終って如来が授記した。この人は命が終るときに五下結(有身見・戒禁取・

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長阿含経巻第五 典尊経

仏説長阿含経巻第五
 後秦の弘始の年、仏陀耶舎と竺仏念が訳した。

第一分 典尊経第三

※『長阿含経』巻第五のPart1、全体を通しては三番目のお経です。
ちなみに、『長阿含経』の巻第二から巻第四までは『遊行経』で、内容は『仏般泥洹経』とほぼ同じです。

 このように聞いた。仏がラージャグリハの耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に大比丘衆千二百五十人とともにいたとき。
 執楽天(乾闥婆/ガンダルヴァ)の

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『稲荷心経』のこと

『稲荷心経』とは、日本で撰述されたお経です。
これが大乗仏教の精髄をわかりやすくかつ端的に記しているので、私は根本経典として毎日お唱えしています。短いお経ですので、全文を見てみましょう。

本体真如住空理
寂静安楽無為者
鏡智慈悲利生故
運動去来(こらい)名荒神
今此(こんし)三界皆是我有(がう)
其中(ごちゅう)衆生悉是吾子
是法住法位世間相
常住貪瞋癡之三毒煩悩
皆得解脱即得解脱
掲諦掲諦波羅

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大本経から見た釈尊伝の謎

 我々仏教徒によく知られた釈尊伝。
 しかし、『長阿含経』の巻第一「大本経」を読むと、釈尊伝として知られたことがビバシ仏の伝記として記されていることがわかります。

一、過去七仏

 毘婆尸(びばし/ビパッシー)仏は、過去七仏の最初の人です。
(ちなみに、「過去七仏」には釈迦牟尼仏も含まれます)

 「阿含経」とされる経典群は、「仏般泥洹経」にも記されているように、仏滅後すぐに、請われた阿難が「阿

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一水四見

一水四見という言葉がある。
日本語変換の単語には登録されていないので、仏教界でしか使わない熟語のようだ。
ググってみればすぐわかることだが、唯識の物の見方で、認識の主体によって認識の対象も変化することを例えた言葉である。

『瑜伽師地論』の言葉が出典だという説もある(未確認)。

「一水四見」の意味はこうだ。
人間から見れば透明な水の流れる河も、天人から見れば水晶の床、魚にとっては自分の住みか、餓

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長阿含経巻第一 大本経

 後秦の弘始の年、仏陀耶舎が竺仏念とともに訳した。 

第一分初・大本経第一

 このように聞いた。
 仏が舎衛国の祇樹花林窟に大比丘衆千二百五十人とともにいた時のこと。
 比丘たちは乞食の後で花林堂に集まり、各々議論して言った。
「賢い比丘たちはただ無上尊のみを最も奇特としている。神通力は遠くに達し、威力は弘大だ。そして、過去の無数の仏たちについて知っている。彼らは涅槃に入り、諸々の煩悩を断ち、

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長阿含経 序

 長安の釈僧肇が記述した

 それ、極みをつかさどる者は言う、賢聖はこれにあたっては黙るのみと。しかるに玄旨は言葉にしなければ伝わらない。釈迦が教えに至ったから、これによって如来が世に出たのである。
 大きな教えとして三つある。
 身口の約束は禁律を守ること。善悪を明らかにすることで導かれ経と結ばれる。幽微な規則を実行することで法の相を述べる。それは三蔵(経・律・論)のなす所である。本来は個別に応

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「瓢箪鯰」の公案

室町幕府の四代将軍・足利義持は、ある時「丸くすべすべした瓢箪で、ぬるぬるした鮎(なまず)を抑え捕えることができるか」という公案を思いつきます。さっそく、画僧の如拙(じょせつ)に命じて絵にし、当代きっての禅僧三十一人にその回答を求めます。

さあ、どう答えますか?

如拙の「瓢鮎図」と、各禅僧の回答はこちらです。

「無理なものは無理!」系の答えが大半の中、面白いのは玉畹梵芳の「ナマズ飯にして食って

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小僧の神様

志賀直哉の短編に『小僧の神様』があります。
専修学院時代に授業で触れられていたので、その時に思ったことを元に書きます。

仙吉はハカリ屋の小僧です。
若い貴族院議員に寿司をおごってもらい、いろいろな偶然が重なって自分を見ていた神様だと思い込みます。
そして「いつかはまた「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現れて来る事を信じ」るようになります。

という短い話です。

さて、この話には何人のカミ

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「竿頭進歩(百尺竿頭)」の公案

『無門関』第四十六

石霜和尚云、「百尺竿頭、如何進歩」
又古徳云、「百尺竿頭坐底人、雖然得入未為真。百尺竿頭、須進歩。十方世界現全身」

石霜和尚が言った。「百尺の竿のてっぺんにいるとき、どのようにしてその先に進むのか」
また、昔の徳ある人が言った。「百尺の竿のてっぺんに坐っている人は、ある程度の納得は行っていても、いまだ真理にはたどりついていない。百尺の竿頭にあっては、かならず先に進まなくては

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「鐘声七条」の公案

『無門関』第十六

 雲門曰、世界恁麼廣闊。因甚向鐘聲裏披七條。

 雲門禅師が言った。「世界はどうしてこうも広いのか。どうして鐘が鳴ったら七条袈裟をまとうのか」

+++
以下、無門禅師の「そもそも参禅して道を学ぼうという者はだなあ……」というまじめくさった着語が続くのですが、それはさておき。

 我々は日々、稼がなくては生きていけません。
 いやだなあ、と思っても職場におもむくのです。
 お坊

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仏般泥洹経巻下

 西晋の河内の沙門、白法祖が訳す

 仏は阿難や比丘たちとともに、華氏国の淳の家からクシナガラ国に向かった。クシナガラで仏は病にかかったと言い、道に坐りこんで阿難を呼んだ。
仏「近くに鳩対(ククッター・ナディー)という渓流がある。鉢を持って行き水で満たして持って来なさい。飲んで顔を洗いたい」
 阿難が渓水のほとりに行くと、五百台の車が上流を通って水はすっかり濁ったところだった。
 阿難は濁った水を

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仏般泥洹経巻上

 西晋の河内の地の沙門白法祖が訳す。
 
 このように聞いた。仏が王舎国の鷂山(霊鷲山)に千二百五十人の比丘とともにいた時のこと。
 マガダ国王の阿闍世(アジャータシャトル)は、ヴァッジ国と仲が悪く、ここを討伐しようとして群臣にはかった。
「ヴァッジ国は富んでいて民の勢いも盛んだ。多くの珍宝も出している。余に服従しようとしない。ここはひとつ兵をおこして攻めようではないか」
 国には雨舎という賢公が

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なぜ人々は釈尊の足に頭をつけるのか

令和2(2020)年11月4日のツイートから再編集しています。

現在、吹田の国立民族学博物館では「先住民の宝」展をしています。その中にネパール西部のマガール人のコーナーがあり、彼らが1998年に仏教徒宣言をしたという話がありました。彼らは山地や農村の民で、ヒンドゥー教とカースト制、バフン(ブラーフマン)からの離脱を呼びかけています。

マガール人と言ってもピンと来ないでしょうが、彼らはグルカ兵と

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