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頭アッパラパーで詩を踊る

 酒を飲んだときには詩を読むのが一番に具合がいい。
 この具合がいいというのは、酒でアッパラパーになった頭には何かを理解するための能力が欠如しているので、難しいことは理解できないことに由来する。
 文章というのは言葉の羅列ですよという様相をしておきながら、探ってみると何かしらの意味を含んでおり、それがどんどん長くなっていくと理解する為にはそれ相応の理解力を要求してくる。素面の間であればなんとか付いていく事ができるのだが、酒を飲んでいるときには付いていくことは疎か、この語の意味ってなんじゃいとか些細なことで躓くようになり、そもそも前の項には何が書いていたっけ、つかなんでこの物語に至っとるの、とか、その場で地団駄を踏むような読書体験になる。仮に読み進めたとしても、明朝には記憶の彼方へと飛んでいる。いざ読み進めた頁から始めようとも、内容の記憶はないものだから、結局読み進める前の頁に戻るなどして意味のない行動を取ることになる。
 詩ではそういうことがあまり起こらない。なので、酒を飲んだ時は詩ばかりを読んでは酩酊の彼方へと旅立たせている。もちろん、詩にも文脈というものは存在する。詩を書いた人がなぜこの詩を書くのに至ったのか、何を思い何を考え詩に込めたのか、それを想像するのも詩を解する醍醐味の一つだと思う。だが、頭がアッパラパー時にはそれを想像する為の理解力というのは暗い穴深くで眠っている。では、詩の何を楽しんでいるのかという話になる。
 多分、楽しんでいるのはリズム感なのだと思う。恥ずかしい話だが、最近始めて中原中也の『汚れつちまつた悲しみに』を読んだのだが、全く意味がわからなかった。それもそのはずで、理解力が死んだ脳で詩の良し悪しを解することは不可能である。だが、この詩がなにかいい具合に感じたのは事実としてある。まず良かったなと思ったのは、「汚れつちまつた悲しみに」がループしているという点だ。このループは「悲しみ」を強調させるために用いられているものであるのかと推察するのは容易であるが、この用いられているループこそがなにか音楽を聴いているような心地に導いてくれるのだ。声に出して読んでみるとそれがすぐに理解できる。内容は重く暗いのだが、不思議とリズムというのが浮かんできては脳に酔いとは別の快感を生じさせる。この心地よさというのを酒を飲んでいる時に享受したくて詩を読んでいるのだ。もちろん、内容を理解することはできないが。

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