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KODOMO in tha 成長グルーヴ

 子供が苦手だ。そう意識し始めたのは、高校二年生の時期にあった出来事に由来する。
 あくる日、親戚の子の番を任されていたら、いきなり「お前のことが嫌いすぎるので俺は今から不機嫌になる。脇目振らずに泣くことでお前を悪党にしてやる」と子から宣告され、実際にギャン泣きされた。あたふたしている僕がなぜか悪さを働き子を泣かしたということにされ、「子を泣かすとか信じられん。年長としての自覚はないのか」などという謂れなき誹謗中傷の傷を負って以来、子供というのはどこか大人を軽んじて生きている生物だと思い込んでいる。彼ら・彼女らは、大人という権威が狼狽える姿を見てほくそ笑むなどをする凶悪な存在なのだ。こんな事があって以来、子供を苦手としている。
 しかしながら、こんな意味不明なことを言い出し混乱を呼び起こす子供なんて珍しいこと他ならない。大概の子は無意味に抱っこを要求してきたり、僕が所有している本をびりびりに解体してゲラゲラ笑っていたり、僕が飼育している亀が見たいと要求し見えたら二秒で飽きて抱っこを要求してき、何々が食いたいと要求してきたので買ってきたらもういらないとギャン泣きされたり、イノセンス極まりない行動を取って自身を満足させている。其れは其れで腹が立つ。腹が立つのだが、もし、右に述べた狡猾な子ばかりが社会に蔓延しているとしていれば、大人という立ち位置にいる人間はより権威者らしく、貴様のことをコントロールしているのだという人間らしく振る舞うことを要求される。ただでさえ、親という重圧を抱えているのにも関わらず、さらに大人として振る舞うということを要求される。仕事・人生に対してものすごい責任を抱えているのに、さらに追加されていく。はっきり言ってそんな社会は勘弁して欲しい以外に思いつく言葉がない。イノセンスな子が跋扈している社会で本当に良かったと胸を撫で下ろす。
 とは言え、子は大切な存在であると思う。不条理な要求をしながらも、無邪気な笑い声で場を和ましてくれる。それだけでも素晴らしい存在であると思う。なにかの本で読んだのだが、子供という体温が宿った小さき存在を胸に抱くと親として生物としての矜持が一瞬にして目覚める旨のことを書いていたことを思い出す。映画に生きて映画に向かい続けている人物にでさえ、それほどのことを言わしめる存在である子。本当にに、子という存在は人という生命に置いて重要な存在になるのだと思う。とは言え、欲しいとは全然に思わないのだが。人が育てた子を苦労を理解するふりをしながら可愛い可愛いと愛でる姿は、子の可愛さだけを享受する簒奪者ではないだろうかと不安に思ったりもする。
 可の狡猾な子はいつの間にかすくすくと成長し、つい先日には、フランスに留学しそのまま職探しするのだと親戚等々が集まる場で胸を張って主張していた。なんと素晴らしきことか。眼の前に僕という快楽ばかりを求め失敗ばかりしてきた反面教師が居るので、阿呆な生き方はしないでほしいものだと願う。


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