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「知性の発達プロセス」という重要な概念について:『なぜ人と組織は変われないのか』が示したもの

本来であればもっと注目されていて良いはずの概念が、いまだメジャーになっていないケースがある。その1つが、「成人の知性の発達プロセス」であると考えている。

ロバート・キーガン氏とリサ・ラスコウ・レイヒー氏は著書『なぜ人と組織は変われないのか ― ハーバード流 自己変革の理論と実践』(英治出版)にて、この概念を端的に提示している。

両氏は、成人発達理論の研究者である。成人発達理論とは、発達心理学の一分野。人間は成人後も成長し続けるという考え方に基づき、発達の様相や条件を理論化することを目的としている。

「成人の知性のレベルの分布」という図を見ると、かれらのメッセージがよく見えてくる。先に挙げた同書から、図を引用する。

ロバート・キーガン; リサ・ラスコウ・レイヒー. なぜ人と組織は変われないのか ― ハーバード流 自己変革の理論と実践 (p.50). 英治出版株式会社. Kindle 版.

本書によれば、成人の知性には大きく3つの段階がある。グラフの下側から上側へと簡単に要点をまとめた。(記述は、紙幅の都合、書籍に従いつつ筆者の理解に基づいた表現となっている。ご了承いただきたい)

【環境順応型知性(ソーシャライズド・マインド)】
 環境に順応するタイプの知性の持ち主。周囲からの期待によって自己を形成する。つまり、自我は基本的に、所属する組織や集団への帰属意識に基づいてつくられる。また、順応する対象は、他の人物、およびその人物の考え方、あるいは価値観の流派となる。
 この知性を象徴するキーワードは、チームプレーヤー、忠実な部下、大勢順応主義、指示待ち、依存。

自己主導型知性(セルフオーサリング・マインド)】
 周囲の環境を観察し、それを客観視することで自分なりの価値基準を確立する。またそれに基づいて周囲からの期待を評価し選択する。また、自分なりの価値基準に沿って行動規範を定め、それに従って自分ができること・できないことなどを周囲の人物に表明しつつ、自律的に行動する。これら一連のアクションを通じて、ひとつの自我を形成していく。
 この知性を象徴するキーワードは、課題設定、導き方を学ぶリーダー、自分なりの羅針盤と視点、問題解決志向、自律性。

自己変容型知性(セルフトランスフォーミング・マインド)】
 自分自身の価値基準を客観的に見て、その限界を検討できる。あらゆるシステムや秩序は断片的であり、また不完全でもあると理解している。この理解に基づき、矛盾や反対を受け入れつつ、自分の内外にそれぞれ複数のシステムが存在しうることを受け入れ、また保持しようとする。また、対立する価値基準・システム・秩序の片方ばかりを支持するのではなく、両者の統合を試みようとする。これを通じてひとつの自我を形成していく。
 この知性を象徴するキーワードは、メタリーダー、学ぶことによって導くリーダー、複数の視点と矛盾の受け入れ、問題発見志向、相互依存。

それぞれの知性の段階は、その前の段階よりも優れている。前段階の知性に加えて新たな機能が加えられているためだ。その結果、仕事における発揮能力は大きく伸びる。またそれ以上に、現代という複雑化した世界への対応能力が違ってくる可能性がある。

キーガン氏らによれば、知性の段階に応じた成果の度合い、そして発揮しうる対応能力の違いは、「数々の研究によって裏付けられている」のだとする。また、「働く人すべてが知性のレベルを次の次元に向上させる必要がある」とも付け加える。

人間の知的レベルと測る度合いとして、いわゆるIQテストが思いつくかもしれない。しかしIQテストでは、こうした知性の度合いは測れないとする。キーガン氏らは本書において「IQテストの結果と知性の相関関係はきわめて薄い。たとえばIQが125以上ある人のなかには、知性が自己変容型に達している人もいれば、自己主導型や環境順応型にとどまっている人もいる」とする。要するに、技術的な側面での知能(IQ)の高さと、キーガン氏らが導出した現代の産業界で求められる知性のレベルは、必ずしも相関関係にはない、というわけだ。

ちなみに、自己主導型知性の段階より上に到達している人の割合は、極めて小さいとする。先に示した「成人の知性のレベルの分布」という図は研究結果をメタ分析した結果に基づき作られている。研究Aにおいても、研究Bにおいても、自己変容型知性を備えているとみられる人の割合は1%以下であった。

■大前氏が明かした「偏差値洗脳システム」の問題

他方、「知性」というと、日本人は、いわゆる学歴の度合い、つまり、大学を出ているのかそうではないのか、また出身大学はどこか、といった話題を、ふと思い浮かべるケースは少なくないのではないか。

経営コンサルタントであり、また大学経営者・教育事業家としても著名な大前研一氏は、メディア「プレジデント」および自身が経営するビジネス・ブレークスルー大学院大学の公式ブログにて、「学校偏差値システムは、かつて元首相の故・中曽根康弘氏が日本の若者を政府に逆らわせないシステムとして企画し、日本に浸透させたのだ」との趣旨を記している。次の公式ブログURLからご覧頂きたい。

「学力偏差値」導入の狙いは、国民の”洗脳支配”だった!?2022年3月8日

要するに、学校偏差値システムは、若者の個性や能力を伸ばしつつ各教育機関向けに適切に選抜することでもなく、各高等教育機関を適正に評価して育成することでもなく、政府が「国民を洗脳するための調教システム」として企画し浸透させた、というわけだ。なお記事にも触れられているが、当時マッキンゼー・アンド・カンパニーに所属する経営コンサルタントだった大前氏は、中曽根氏の政策アドバイザーとしても活動していた。その点から考えても、この話題の信憑性は高いと考えていいだろう。

学校偏差値システムのことをご存じの方は多いと思う。このシステムを大前氏が指摘するいわば「洗脳システム」という観点から見てみると、実に合理的に設計されているように感じられる。以下、学校偏差値システムの特徴を、「洗脳システム」であるという仮説的視点に基づいて整理してみた。少しうがった見方の記述になっている理由は、この仮説的視点を強調するためである。その旨、ご了承いただきたい。

・国内の大学をはじめとした高等教育機関を、大学を受験したいと望む学生の模擬試験の結果で算出される偏差値によって、一律に序列をつける。その大学が問題解決能力のトレーニングに力を入れていようが、リベラルアーツに力を入れていようが、実務スキルの体系的教育に力を入れていようが、そういったことは考慮しない。また、大学の学部の違い(理系・文系・芸術系・体育系など)の違いもそれほど考慮に入れず、とにかく偏差値によって序列を明確につける。なぜなら「序列をつけること」が目的だからだ。

・入学試験の方式や機会を限定したうえで「どこの大学に入ったかがその後の人生を大きく左右する」という特別感を強調して演出する。例えば、入学試験を「18歳あるいは19歳時点という限られた年代において膨大な人数のライバルと競う、年にほぼ1回だけ開催される形式」とする。加えて、入学試験の方式をできる限り統一的な筆記試験とし、模擬試験との親和性を高める。さらには、先に述べたような「大学選びがその後の一生を決定する」とのメッセージを繰り返し発信する。これにより、受験する学生たちの間(加えて保護者)に対して、強い緊張感を創出しつつ、入学筆記試験を勝ち抜くこと、そして模試で高い点数を獲得することの重要性を、若者と保護者に印象づける。(なお、米国大学の入学システムなどは、だいぶ異なるようだ。共通試験は年に数回行われており、実際に入学できるかどうかはそれら共通試験を含めた総合的な書類選考で行われる。あえて例えるなら、入社試験や会社選びに近いのだろう)

・脳機能科学者である苫米地英人氏の書籍を複数読んだ結果、私なりに理解したことがある。それは「精神的・肉体的に緊張感があり、かつ恐怖と賞賛のアメとムチをちらつかされるという環境に一定期間身を置いていると、人は一種のトランス状態(変性意識状態)に陥り、防衛本能を働かせながらアメを得る方法を思わず選択してしまうようになる」ということだ。トランス状態でインプットされた情報や価値観は、「私はこれは良いと思う・良くないと思う」という本人の意思や価値判断のフィルターを経ることなく、意識空間内に埋め込まれるという。つまり、それらの情報や価値観を自らの意思に基づいて検証したり、修整を加えたりすることが極めて難しくなる。この知識をもって日本の受験システムと受験勉強の環境を観察すると、若者と保護者を変性意識状態に持ち込ませ、これに熱狂的な関心を持たせようとしているようにも見える。

・もし本当にそうだとしたら、日本の受験勉強のシステムは、数々の心理学的手法や仕組みの併用によって、若者とその保護者の意識下に「入学試験によってトップ大学に入れた若者は頭が良くて、それよりも下の若者は頭が良くない」という印象づけが深くなされて当然と考えられる。つまり、トップ大学に入学した若者には知的な優越感がインプットされる。またそうではない若者には知的な劣等感がインプットされ、「私は能力がない」という敗北感と挫折的な思考パターンがすり込まれる。

・併せて、トップ大学に入った若者には国の中枢機関に入るよう誘導する。結果、国の中枢機関に入った人間に対して、その他の人間は知的面において劣等感と敗北感を抱いているため、国の中枢機関が実施する施策に対して批判的検証をしたり異論を述べたりすることがしにくくなる。しかもそれは生涯にわたり機能する。これが、大前氏が述べた故・中曽根氏の狙いであると考えられる。

以上のように、ポイントを記述してみた。

これは多くの人が同意すると思うのだが、実際の実務現場においては、学歴ブランドなどを気にせず、その人の人格・発揮能力と個性・将来の可能性などを総合的に評価しながらチームで業務を遂行しているケースがほとんどだろう。しかしそうであったとしても、大前氏が明かしたように学校偏差値システムは洗脳的であるがために、受験システムに身をさらしてきた人々の間では心のどこかで「あの人は○○大学だから(ではないから)」という思考と優越感及び劣等感が、本人たちの意思に反して沸き上がってくるシーンが少なからず発生しているのではないか。

この心の動きは、潜在意識下で微妙な形で機能するため、自己修整が難しい。そもそも、そうした潜在意識下の心の動きに自らの顕在意識側が巻き込まれていることを客観的に認知することさえも、困難であるかもしれない。

実務面はさておき、世間話として、自己や他者の「入学大学ブランド」にやたらとこだわる傾向は強い印象がある。そのような現象が各所で見られる理由をあらためて考えてみると、「知的能力の評価は、大学入学希望者が受ける模試における成績(学力偏差値)と、その結果『どこの大学に入学できたか』がすべて」という価値観が、繊細な感性を持っている若い頃に、潜在意識に洗脳的な手法で意図的にインプットされているからではないか。

翻って、日本の各所に目を向けると、偏差値システムの序列においては必ずしもメジャーではなくても、光る教育活動をしており、優れた人材を輩出している高等教育機関は複数存在する。しかし、そうした活動成果は「偏差値洗脳システム」が日本国民に与え続けてきた印象の強さによって、かき消されてしまっているようにも見える。これは日本にとって極めて残念な状況ではないだろうか。

■新しい知性の評価尺度を日本に広める必要性

最初の話に立ち戻ろう。キーガンらが示した「成人の知性」の3レベルは、今こそ日本に広めるべき考え方であるはずだ。

脳は年齢を重ねても環境に適応するべく、ダイナミックに変化している。これは「脳の可塑性」と言われており、年齢を重ねても知的能力も高められる可能性があるという科学的真実を示したキーワードである。キーガン氏らの著書の導入部でも、かれらの研究成果を傍証する科学理論として紹介されている。そして先に引用した図の横軸「時間」を見ればわかるように、成人の知性――環境順応型から自己変容型への成長は、時間を経る、言い換えれば経験を積むことによって可能になるものである。

脳の可塑性に関する研究は多々行われている。少し古い研究発表だが、我々が知るべき話題をここで紹介しておきたい。「成人脳においても、記憶と学習に重要な海馬においてはニューロンが日常的に新生している」という。1998年11月、スウェーデンのサールグレンスカ大学病院のエリクソン(Peter S. Eriksson)とカリフォルニア州ラホーヤのソーク生物学研究所のゲージ(FredH. Gage)らによる発表内容である。次の日経サイエンスの記事も併せてご覧頂きたい。

この見地から考えても、10代終盤時点の限られたタイミングにおける成功と失敗で、その後の人生のすべてに影響するような評価を定めてしまうシステムおよび社会文化の傾向は、「人生100年時代」と言われる今において、不健全であり、また常に成長し続ける可能性がある人間という存在に対して不誠実な態度であるはずだ。そもそも、先にも触れたように、科学的な態度ではない。

なお、学歴があるのかないのかというラベリング行為それ単体を見ても、一般的に言って知的な態度ではない。さらに「日本の学歴システムにおいてはその成績がIQの度合いに従っている」という仮説的前提を立ててみたとしても、キーガン氏らが述べたように、3段階の知的レベルとIQのスコアの間には、相関関係はない。

先にも触れたように、3段階の知的レベルが上の段階に行けば行くほど、仕事上での成果が高まるという。これは「失われた30年」と言われる苦境が続いて久しい日本において、ビジネスパーソン誰もが特に重視するべき尺度ではないだろうか。

ここ日本では若者の自殺率が先進国でもトップクラスであるということで、大きな社会問題として度々取り上げられている。私個人的には、その遠因には、この学校偏差値システムが若者に与えている人生への閉塞感があると推察する。

私はこれまで、トップ大学出身の人々とたくさん仕事をしてきて、激しい勉強経験を積んできたかれらから、多くのノウハウを学べた。また、努力を重ねていわゆる良い大学に入学することについて、それを軽視するつもりもない。AIが発達して「暗記型の勉強の意味が薄れた」と言われる時代になったが、それでも暗記の意味がないことはない。その理由は、思考を深めるには一定以上の記憶量がどうしても必要だからだ。

ただ、あまりにも「10代において入学試験で勝ち抜いたこと」と「その後の人生において長く支配し続ける知的レベルとしての評価」が強固に紐付いている風潮は、まさに大前氏が指摘したように、かつての為政者が国民を支配するために仕掛けた、前時代的な政策の象徴であろう。

併せて見逃せないのは、最近の教育学の研究では、生まれた家庭環境と生まれた地域によって小中学校の成績が左右されるというデータが出ていることだ※。要するに、子どもにとっては選択し得ない生まれながらの環境が、義務教育課程の成績を左右する。義務教育課程の成績は当然、その先の高等教育機関の選択にも大きく影響する。

※ 子供の人生は「生まれた家庭と地域」で決まる……日本の“教育格差”の厳しすぎるリアル | 文春オンライン (bunshun.jp)

この研究結果は、「学歴に基づく差別は、男女の性差別や人種差別と本質的には同じである」ことを示している。これは今、あらゆる社会人が早急に心に留め置くべき、重要なポイントではないだろうか。我々が暮らしている社会は思った以上に早く、「相手に対して、学歴に基づく何らかの侮蔑的あるいは優越的な態度を示した場合、相手から民事で訴えられて負けても仕方がない」という基準に切り替わる可能性もある。

私は若い頃、あるトップレベル大学出身の先輩とタッグを組んで仕事をしていた機会があった。仕事の帰り際に電車の中で、ある数学の証明問題の話になった。「私、高校生時代からずっと、うまい証明の仕方がどうしても分からなくて」と言った。すると、その先輩はすらすらと「あれはこう考えればこう証明できるよ」と教えてくれた。私はとても感動して「○○さんさすがですね」と感想を述べた。するとその先輩は次のように答えた。「いや、僕は○○予備校に通っていたんだけど、そこで教えてもらったんだよね」。私はこの時、「なるほど受験で最高レベルの成果を出すには、しかるべき投資も必要なのだ」と感じた。要するに企業の研究開発投資や事業投資と同じである。

私の親は、子どもは塾や予備校には通わせないというポリシーだった。実際、私は塾や予備校に通わずに高校・大学受験に臨んだ。もちろんそれを今さら問題視したり批判したりすることはないのだが、当時は「親のポリシー」あるいは「教育への投資」という若者本人には動かしにくい外部要因の影響を実感した結果、なんとも言いがたいネガティブな気持ちになったものだった。そして今、私が実感した外部要因の影響が、日本の各所で顕在化しているということだろう。

復習する。キーガン氏らは、3段階ある知性レベルの最終段階を自己変容型知性(セルフトランスフォーミング・マインド)と述べている。そしてこのタイプの知性を持つ人物は、「あらゆるシステムや秩序は断片的であり、また不完全でもあると理解している」と述べている。

この時代において、私たちは今こそ、自己変容型知性を発揮し、日本が過去半世紀維持してきた若者の選抜システムを「不完全なもの」と認識して、より良いものへと(まさに)変容させるタイミングに来ているのではないだろうか。若者を洗脳するべく学校偏差値システムを仕掛けた中曽根元首相は、もうこの世を去っている。

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