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ブルシットジョブの一時的夜明け

到底自分だけの力では追いつかないので、頼りがいのあるプロフェッショナルの手を借りながら、今回の報酬改定(改悪)にかかる作業の9割方を完了した。法改正の全容判明したのが3月末~4月初旬なのに、4月15日締切というメチャクチャなスケジュールに合わせて進めた京都市提出書類の完成はつい先ほど。明日明後日の土日を返上してワーカホリックせざるを得ない人も少なくないだろう。

ほとんどベイビー誕生と同時に、昼夜を問わずに進めざるを得なかった強烈なブルシットジョブであっても、終われば言うに言われぬ達成感がある。

そこが不思議だ。なぜ嬉しいのだろう? 

よく分からないけどクソどうでもよくない仕事とブルシットジョブの間には、実はさほどの差なんかないんじゃないか……などと余計な事を考える。ローソンで買った(実にいいサイズ感の)「あたりめ」を肴に缶ビールを飲みながら。

けれど<大きな力>が(そうは思っていないんだろうが)雑に何かを変えると、<小さな市民>は正に現在と未来の生活そのものを揺るがせながら、納得もクソもないままに事を進めざるを得ない。(そう思い込みたいだけかもしれないが)我が身や愛する近しい人たちが生き続けるために。しかし、とんでもないパワーハラスメントだ。

オリンピックを開催するためにそれまであった街の風景をぶち壊すとか、大層な<大義>のために戦争をおっぱじめて<小さな市民>の命(命やで?)を簡単に奪ってしまうとか、最近はそういうのが大流行しているようだ。過去を根こそぎ塗り替えるアートプロジェクトなんかももちろんそう。

が、そうした大流行はずーーーーーっとなのだ。

「今の世の中は……」とかついつい言いがちだけど、文化的破壊も戦争という名の大量殺戮も、実は有史以来あるいは有史以前からずーーーーーっと絶え間なく繰り返され続けている揺るがしがたい真実であり、つまりはずーーーーーっとそれが<普通>なんである。

ひとりの<小さな市民>として、とてつもなく残念な<普通>に甘んじようというわけではない。

いつの時代も「世界は最悪だけれど、じゃあ、どう生きるのか?」と問われているのは自分自身だ。


奇しくも今春大学を卒業し、社会人になる学生へと贈った励ましの言葉たちが、大袈裟かもしれないけどこの2週間の僕自身を助けてくれたように思う。「助けている」と思っている側が実は「助けられている」というひとつの本質。老いも若きも世界は巡り繋がっている。情けは人の為ならず。

今回の報酬改定によって福祉事業の継続を断念する事業者も少なくないと思う。

スウィングは小規模ながら何とか生き残れそうだけど、マジメにやればやるほど元々キツいし、ボランタリー精神で続けられることには当然限界がある。

が、金儲け主義の悪徳業者は別として、やむにやまれず撤退する善良な事業者に対して「それでも福祉か」なんて意味わからん声を上げる人もいる。

それでも男か、それでも女か、それでも親か、それでも社会人か、それでも日本人か。終わりなき「それでも」思考法が事態をますます悪化させる。

ああ疲れる。

近所の子どもたちの、理由なき嬌声が窓外から聴こえてくる。
我がベイビーの、まだ「人」以前の奇妙な声がすぐ背後から聴こえる。
そしてやっぱりビールはうまい。

先のことは何も分からないけれど、半径10メートルの世界から勝手に希望と生きる意味を感じている。

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