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綿飴の空を忘れても


3階の円卓でまかないを早番のみんなで食べて、廃棄にまわったケーキも食べて、喋って、時間が来て、外していたサロンを巻いて、1階から上がってくるエレベーターを待つ、ほんのわずかな時間に、廊下の窓から空を見るのが癖だった。
制服の白いシャツと黒いスラックスに季節は関係なくて、だからだいたいの思い出と季節は連動していないけれど、あの空はとても青かったから、きっと夏だったんだと思う。
雲が巨大な綿飴みたいだった。晴天に、迫力のある雲がくっきりと浮かんでいた。
みんなに教えようと思って、「ラピュタの雲」と口に出したら、隣に立っていた佐伯くんの声の方が大きかった。
驚いて佐伯くんの顔を見ると、佐伯くんも驚いた顔で私を見ている。みんなが「うわ」とか「似てる!」とか言いながら、窓の方へ顔を向けていた。
佐伯くんと私も「似てるよね!」と言い合って、みんなよりも少しだけ遅れてその雲を見送った。
みんなで空を見た、というささやかな出来事が嬉しかった。同じ感覚を持った人がいて、それを同時に見つけて同時に声に出したことが嬉しかった。

渋谷の雑居ビルの1階にあったそのカフェは広くて客席も多かった。週末はもちろん、平日もフル回転になるから、ひとりひとりが常に客席と仲間の動きを見て、優先すべきを守ったうえで互いのカバーもしていかないと、店が回らなくなる日や時間帯があった。
長時間、常に動き回っていて、くたくたになる。けれど、私はそのアルバイト先がほんとうに好きだった。
20代半ばの同年代が集まっていて、ほとんどのメンバーがフルでシフトに入っていた。それぞれが個人の理由で前職から離れて、次の仕事を決めるまでの中休みのような、夏休みのような、考え、悩み、迷うことを全て許された、そんな時間だったと思う。
土地柄、夢を持った人や夢を叶えてバイトを辞めてゆく人もいたけれど、小説家になりたい人はいなかったようで、驚かれた。そして、応援された。締切まえ、店が落ち着くと「今日早上がりしたい?」と聞いてもらえた。「はい。上がりたいです」と答えておいても、再び店が混んで、早上がりできなくなることもあったし、翌月の収入が減ることも痛かったけれど、何よりも時間が欲しかったから、とてもありがたかった。
早上がりの日は、ひとりひとり全員に必ずお礼を伝えていたけれど、その度に「がんばって」と笑顔で言葉を返してもらえた。がんばろう、と自然に思えた。思い返せば、とても温かい環境にいた。

佐伯くんには佐伯くんの事情があって前職を離れたけれど、もう一度その仕事がしたいと考えているみたいだった。
「ラピュタの雲」以降、佐伯くんと親しくなって、自転車でよく遊びに出かけた。
いろんな街でいろんな話をした。
実家は東北地方にあって、お父さんはこういう仕事をしていて、弟がいる。弟は、こういう事情があって、働くことはたぶん難しい。
いつだったか、騒がしいどこかの店の片隅で、ゆっくりそんな話をしてくれたこともあった。

私は24歳から26歳までそこにいたけれど、佐伯君は23歳の半年ほどしか、そこにはいなかった記憶がある。前職に復帰することが決まって店を辞めた。
バイトを辞める、と教えてくれた日、「おめでとう」と言うと、「〇〇(バイト先の店名)は、俺の青春」と、佐伯君はわらっていた。
ラピュタの雲を思い出した。
帰り道で、佐伯君に呼び止められて、「ジブリで何が好き?」と突然尋ねられたことを思い出した。

私も今、振り返ってみて思うよ。
あの時間は青春だった。
あの頃みんながいた渋谷の雑居ビルは、取り壊されて、別のビルが建っている。
閉店した店が取り壊される数日前、ビルに立ち入ることができた最後の日、店長の計らいで、みんなでその店にお別れをしに行った。
もう二度と戻らない喧騒と、確かに在った時間が懐かしくてかなしかった。
この世には、いつかなくなるものしかない。
人が造ったものは、自然に比べればとくに短命だと、わかっている。
壁やテーブルやイスやカウンター、柱や床にも触れて、ひとつひとつの手触りを記憶していった。それしかできなかったから。

そして2011年、佐伯くんと再会した。仕事は順調そうだった。当時のメンバー数名で集まって、やっぱりその年に起きた東日本大震災の話題になった。
それぞれ、山手線内から埼玉まで徒歩で帰ったり、都庁がバネのようにうねっているのを見たり、帰宅してみると床に物がたくさん落ちていたり、様々だった。
私はそのとき小さな交差点の一角で、信号待ちをしていた。たまたま車通りがなかった。急に地面と信号が踊るみたいに揺れはじめて、私の体のすぐそばにある雑居ビルの、全面ガラス張りの窓がバリバリと大きな音を出しながら震えた。割れる、落ちてくる、たぶん飛び散ってくる、と焦ってその場を離れたけれど、どきどきして、足がすくんで、逃げないと、という危機感のわりには移動できなかった。
周りの目を気にしたのもある。
みんなが油断しているように見えた。すぐに止む、どうせ大丈夫、道ゆく人たちが、そう判断しているように見えた。その中で、自分だけが急いで移動するのは恥ずかしいことじゃないだろうか。でも、私はちゃんと逃げたい。

佐伯くんも、自分の話をしていた。そこにいて、みんなの話も相槌を打ちながら聞いていた。
でも、思い出した。佐伯くんの実家は東北だった。
その日、帰り道でふたりになったとき、実家が半壊したことを聞いた。
半壊は全壊に比べてマシな状況、と無知な私は思っていたけれど、私の想像の「半壊」は、ほとんど「全壊」のことだった。
「半壊」と判断される範囲が広くて、佐伯くんの実家は、私の想像する「全壊」だった。
それでも、全壊ではないため、修繕にかかる費用はすべて自腹で、職場もぐちゃぐちゃになっていて、お父さんが塞ぎ込んでいると聞いた。これから背負っていかなければならないもの、たてなおしていくには大きいもの、佐伯くんの気持ち。
何か言いたくて、何を言えば気が軽くなるかがわからない。私が何か言っても、慰めになんてならないじゃないか。むしろ傷つけてしまいそうでこわい。でも、佐伯くんは私に話してくれた。ぐるぐる考えても、何も言えそうになかった。「佐伯くんの家族がみんな生きててよかった」という言葉しか出なかった。情けなかった。
佐伯君が少し驚いたように私を見て、失敗した、と感じた。
「大変なこと山積みだけど?」
「……うん」
ごめんなさい、と思いながら頷いた。
佐伯くんの顔は見られなかった。
家のこと、お金のこと、お父さんのこと、弟さんのこと、何かを自分で確認するみたいに、ゆっくり、区切りながら、今のこと、これからのことを口に出して、佐伯くんは最後に「ありがとう」と言った。
佐伯くんの顔を見ると、少しだけわらっていて、知っている佐伯くんに見えた。
ありがとうと、私に言ってくれたのかもしれないけれど、私に言ってくれたのではないのかもしれない。
どちらでもよかった。
ラピュタの雲を思い出そうとした。
いつか、3階の窓からみんなで見た。
もうない場所の、もうない窓から見た空。
だけど、私の頭に浮かぶのはもう本物のラピュタの雲で、がんばって思い出そうとしても、もう思い出せなかった。
だから「〇〇は俺の青春」と口に出してみた。
「そうよ」と言って、佐伯くんはわらってくれた。

それから何年も経って、佐伯くんが結婚することを聞いた。
実家のご家族は、わりと元気でいるそうだ。












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