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【小説】 真夜中のこども

  

 エントランスで待っていると、エレベーターが稼動しはじめた。程なくして、「ごめんなあ」と苦笑いを浮かべた珠子ちゃんが降りてきた。
「もうだいぶ落ち着いてん。さっきまではほんまに酷かってんけど」
 昼間と変わらない明るさで手短にそう言うと、珠子ちゃんはいちばん遅いメトロノームのテンポで体を揺らしはじめた。初めて見る素顔には幼さが留まっていて、目の下が少しくすんでいる。
「真樹ちゃん、ほんまのスッピンやん」
「珠子ちゃんを信じてみた」
「全然変わらへんやん、て言うてあげたいけど眉毛薄いな」
「自分だって眉毛少ないよね?」
「なんやねん『少ない』って。初めて言われてんけど」
〈スッピンで行くけどごめん〉〈私も〉というメッセージをついさっき送り合った。だけど本当にノーメイクで来るとは限らないよな(もし完全なスッピンじゃなくてもあまりがっかりせずにいよう)、という気持ちだった。珠子ちゃんもそれは同じだったみたいで、耳が赤くなっている。
「なんか、両思いみたいでイヤやな」
「うん」気恥ずかしさで目が泳いだ。
 珠子ちゃんの抱っこ紐からは、明日夏ちゃんの頭頂部と手足がだらんとはみ出ていた。カバーオールの兎の耳のフードも垂れている。
「眠気って目に見えるんだね」
「それな。明日夏の眠気が時空の歪みみたいに見えるときあんねん、私」
 明日夏ちゃんの頭を自分の胸に預けて、珠子ちゃんはあくびを嚙み殺した。無理もない、たぶんもう深夜一時を過ぎたはずだから。
「今日は帰る? 明日夏ちゃん寝たんじゃない?」
「最近、この状態でもあかんねん。ベッドに戻したらギャン泣きやねん」
「不思議」
「なー。けど嬉しいわ、夜中に友達と会うとか、もうないもん」
 いつもは柔らかそうに巻かれた珠子ちゃんの前髪が今日は直毛だった。
 秋の夜のさみしさは、夏のそれほどは強くなくて程よい。水彩絵具を水で伸ばせば向こう側が透けて見えるように、夜は長くなるにつれて薄まるようにできているのかもしれない。
 並んでエントランスを出ると、とりあえず金木犀の植わっている路地の方へ歩きはじめた。日毎に冷たくなる夜更けの外気も、友達といると楽しさになる。楽しいと感じることがしたかった。昼間の喧騒が息を潜めたぶん、自分たちが膨張した気がした。
 住宅街の配色も目を凝らせば単調な濃紺ではなく、小さな光がそれを照らしている。数えきれない窓の向こう側に、今夜も眠れない誰かがいるならば、せめて、眠ったときにはいい夢が見られますように。
 誰かの家の庭で育った金木犀のそばまで来ると、途切れ途切れに懐かしい匂いがした。
「なんか、金木犀って中学の部活を思い出す」
「真樹ちゃん何部やった?」
「テニス部」
「モテてそうやな」
「片思いしかしてなかったよ」
 そこを通り過ぎてしまっても、いつかの校庭の匂いは漂っていて、残った。
「私、剣道部の先輩のこと好きでさ。剣道場が水飲み場の横にあったから、みんなは持参したものを飲んでたけど、私だけあえて水飲み場まで行ってた。テニスコートと水飲み場、けっこう離れてたのに」
「わかるわぁ。めっちゃわかる」
「あった? そういうの」
「あったあった。私は吹奏楽部やってんけど、サッカー部の子が好きやって、音楽室から校庭が見えるんを理由に、パート練習はいっつも窓際でやっとったもん。岡田くん。サッカーが上手やってん。久しぶりに思い出したわ」
「私、相模先輩だった。袴姿が色気あってどきどきしてた。バスケ部の可愛い先輩と付き合ってて、私はほんとに見てるだけだったけど」
「真樹ちゃんはあれやろ、水飲むとき、絶対いっつも先輩が使った後の蛇口使っとったやろ」
「使ってた」
 変態やな、と笑いながら、珠子ちゃんは汗をかいたらしき明日夏ちゃんの後頭部あたりを、ずっと握りしめていたハンカチで撫でるように拭った。そして汗を吸った面が内側にくるように折り直すと、それを首の後ろから背中まで差し込んだ。明日夏ちゃんはもう眠っていて、何かを食べているみたいに口が動いている。
「夜中のコンビニってな、ホテルの非常口とかと似てへん? うまく言われへんけど」
「同じ安心感あるよね。使う使わない関係なく」
「寄る?」
「いや、私は大丈夫。寄る?」
 いや、と珠子ちゃんが首を横に振りながら返事をして、私たちは煌々とした店舗の前を通り過ぎようとしていた。
 体を寄せ合って腕を組んだふたりが向こうから歩いてきて、ふたりは私たちを、というよりも明日夏ちゃんと珠子ちゃんだけを交互に見た。無遠慮なその視線が不快で、視界の端でそれとなく彼らの動きを気にしていると、ひとりがひとりに何かを耳打ちした。
 珠子ちゃんが気づいてないといいな、と思いながら隣を見た。俯いた横顔が真面目だったから、気づいているし、気にしてもいると分かった。
「正義感の強いカップルやねんな。とんでもない馬鹿親に見えてんねやろな。母親が乳児連れて外におってええ時間ちゃうしな、世間的に」
「こうすると夜泣きがおさまるからなのにね」
 昼夜を問わずにする3時間おきの授乳で、慢性的に寝不足だったという珠子ちゃんは、突然はじまった夜泣きに疲弊していた。私たちは同じ賃貸マンションに住んでいる。私は単身向けの3階の部屋で、珠子ちゃんは10階のファミリー向け。壁の厚みは心許ない。乳児の夜泣きで隣人の睡眠を妨害してはいけないと気を遣って、珠子ちゃんは外へ出るようになった。
「初めて夜泣きした次の日にな、ネットで『夜泣き 原因』『夜泣き 対策』って検索してん。睡眠リズムとか日中しっかり遊ばすとか、すでに意識してやってたことが載っとって、それでも意識してなかったことがあったから試したけど止まんかった。全然寝てくれへんくて寝られへんし、"あんたが駄目な母親やからや"って責められとる気いしてきて、めっちゃ落ち込んだ」
「珠子ちゃんは自分の子を大事に育ててる人だよ」
「でも発狂しそうになるときあるで。せんけどな。いよいよ苦情来そうやし。通報とかされたらほんまに心が死にそうやし。両隣が私の旦那やったら遠慮なく叫ぶねんけどな。明日夏がどんだけ泣いても全く起きんとゴーゴーいびきかいてるくらいやから」
「男女の違いってさ、妊娠とか子育てですごくあからさまになるのかもね」
「ヒトという動物やな。でも真樹ちゃんの彼氏やったら夜泣きの散歩にも付き合ってくれるんちゃう?」
「……どうだろ。わからないな」

 土曜日の夜、章ちゃんに乳首を舐められながら、赤ちゃんに母乳を飲ませるとき、母親は少しも感じたりせずにそれができるものなのかが気になった。突然だった。
 自分の息づかいや、こんなときにだけ出る声がやたら耳につく。フロアライトが茶色く照らしている部屋はほの明るく、少しだけ揺れて見えた。閉め切ったはずのカーテンに隙間があり、こちらを覗いているような黒が気になった。明日夏ちゃんの姿を思い浮かべてしまいそうになる。もっと夢中にならなければ、渇いていく気がした。小さな声で名前を呼ぶと、動物の目をした章ちゃんが私の唇の隙間に指を挿しこんだ。条件反射的に舐める。指が抜かれると舌が入ってきた。思考が簡単に本能に消される。

 口を縛ったコンドームを、章ちゃんがすぐに捨てないで眺めた。私たちは裸のまま、ベッドの上で向かい合っていた。章ちゃんはあぐらをかいていて、私は膝を抱えている。コンドームを見ないふりして、章ちゃんの顔を眺めた。なかなか目が合わないことにじわじわと苛立った。何が言いたいの? と訊きたくなる。それから落ち込むのだ。セックスはちゃんとするくせに、袋の底に溜まっている白い体液からは目を逸らしている。
 顔を上げた章ちゃんは、私の頭に短い口づけをしてベッドを降りた。可能性をゴミ箱に捨てに行く。その後ろ姿からは目を逸らさずにいられた。
 ひとりで考える時間がほしくて、長く湯舟に浸かった。急いで出れば終電に間に合う時間だった。どちらかといえば今日は帰りたい気分だ。深夜の空気を吸って歩いて、ちゃんと落ち込んで。だけど泊まる予定で来たのに「やっぱり今日は帰るね」なんて言うと「何で?」ってなるだろうし……。
 踵に湯が染みて、足を持ち上げると絆創膏が剥がれかけていた。仕方なく剥がすと、ガーゼの真ん中に丸い滲みがある。昨日の靴擦れが化膿していた。新しい靴を履くと決まって靴擦れを起こすから、新品をおろす日には、予め両足の踵に絆創膏を貼って出掛ける。自分なりの予防策だ。それでも絆創膏がずれて傷になることはあるけれど、何もせずに不安でいるよりはずっとよかった。避妊みたい。靴擦れはいつも気がつくと治っていて、誰かに何かが残ることなんてないけれど。
 洗面室でドライヤーを使用していると、章ちゃんが歯磨きをしにやって来た。鏡越しに私を見て、
「俺、最近、考えてたんだけどー!」
 と、ドライヤーの音量をはっきり上回るほど声を張る。
「なに?」
 笑ってドライヤーを切ると、
「いや、今じゃないよな。後で話すわ」
 歯ブラシと歯磨き粉を握りしめて、私に合わせるように少しだけ笑った。
 ソファにいると、マグカップを両手に持った章ちゃんが目の前まで来て、当前のようにそのひとつを私の前に置いてくれた。中身はよく飲んでいる炭酸水。
 この部屋に来るようになった頃、あらゆる飲み物がマグカップで出てくることが不思議で、「なんでグラスじゃないの?」と尋ねると、「考えてなかった」と章ちゃんは目を丸くしていた。生活習慣よりももっと根本的な、感覚の違いだろうか。そんなことが、ふたりの間にいくつもあった。だけどいつしか「違う」ことにも馴れ合い、驚きは、どちらかの習慣に吸収されるか放置されるかして馴染んでいく。
「してみる、っていうスタンスでいくのはどう?」
「何の話?」
「結婚の話」
 やっぱり、と思った。章ちゃんはときどき結婚を匂わせる。いつも優しい目で私を見る。章ちゃんの想像する未来に存在する私は、きっと笑っているのだろう。そう思うと泣きたくなった。
「章ちゃん、こども好きでしょ? 私と結婚したら、こどもがいない人生になるよ」
「どうして産まないって決めるの?」
 章ちゃんの目は、いつも真っ直ぐに私を見る。
「こどもをおろしたこと、私話したよね?」
 自分の声に自分で傷ついた。
「うん、聞いたよ。覚えてる。でも一生そうやってひとりで苦しむの?」
「産んで幸せになれってこと? こどもをおろした人は幸せにならなきゃいけないの?」
「そんなこと、今言ってないよ」
「そうだね」
「でも、幸せになっちゃいけない人ではない」
 私は押し黙った。もう妊娠したくない。産みたくも、おろしたくもない。
 あのとき、自由と責任の分岐点が突如目の前に現れて、悩める時間的な猶予はなく、恋人の要望に従った。私のこと、だったのに。私のお腹の中にいた命だったのに。
 待合室で、恋人が私の手を握っていた気がするけれど、ひとりきりで闘っている気分だった。励ましの言葉を掛けられるたびに恐怖と罪悪感が膨れ上がって、本当は、今すぐ連れて帰ってよと言いたかった。必死にそう願っていた。罰を受ける覚悟であの台の上に乗ったって、答えなんか出せなかった。今ならそんなこと、当たり前だと分かるのに。
「自分の都合でおろしたのに、産めるようになったらつくるの? 命ってそんなに簡単でいいの?」
「俺は真樹といたいよ。今の真樹が好きだよ。過去のことばかり考えるのはもうやめようよ」
「考えないなんて無理だよ」
「今の気持ちで考えてみようよ」
「『してみる』なんて無理だよ」
「無理じゃないよ」
 ソファに並んで座っていたはずの私たちが、いつの間にかまた向かい合っていた。章ちゃんはあぐらをかき、私は膝を抱えている。不思議だった。章ちゃんとは、よく向き合う。
「試さないで後悔するよりも、やってみて後悔する方が俺はいい」
「章ちゃんらしいね」
 真っ直ぐな言葉で語られれば語られるほど、清く正しく生きてこられてよかったね、と決めつけたくなってしまう。
「やらずに後悔するよりもやって後悔した方が辛くない人と、やって後悔するよりもやらずに後悔した方が辛くない人がいるんだと思う。前者の章ちゃんは、逞しく生きていけるだろうね」
 ほとんど目も合わせないまま、時間差でベッドに入った。けんかをした日はいつも背中合わせで眠る。
 分からないままで終わらせることが、増えたように思う。角度を変えて何通りも考えてみたいことや、何度も立ち止まって振り返りたいこと、忘れたくないと感じること、明日の暮らしに直結しない、役にすら立たないようなことが、かつてはもっと、日常的に起きていた気がする。毎日と自分を、そういうものたちが形作っていた気がする。いつかの自分が守ろうとしていたものはなんだったか。きっとシンプルなものだ。ふと見上げた空が綺麗だと、とても素直な気持ちになるような、そんな。いつまでも残したいものは。
 章ちゃんの寝息が聞こえてきて、喉の奥でごめんねと思った。できる限りそっとベッドから抜け出し、ローテーブルのスマホを手に取る。深夜二時。
 珠子ちゃんは眠れているだろうか。明日夏ちゃんが夜泣きをしてないといいけれど。
 眠れないし、やっぱり外の空気を吸いたくてコンビニへ行くことにした。パジャマ用のTシャツの上に、ソファに脱ぎっぱなしであった章ちゃんのパーカーを勝手に借りて着た。
 東京の空を、狭いとは感じない。明るいとは思う。月の輝きは同じだし、星だって、よく見れば意外とある。
 思ったより肌寒くて、少しだけ風もあって肩の辺りがスースーした。パーカーのポケットに両手を隠すと小く丸まった紙に触れた。右手に握って出してみると銀紙に包まれたガムだった。
「やっぱり」とつぶやいて、またポケットに戻した。
 私の愛も、偽物じゃないよ、章ちゃん。章ちゃんが今日も捨てた章ちゃんの精子、私は舐めたっていいよ。汚いなんて少しも感じない。捨てられてしまうことを、本当はもったいないとすら思うよ。私がこんなふうに思う相手は、世界中でたったひとり、章ちゃんだけなんだよ。感情も感覚も正直だよ。見せてあげられるならいいのに。そうすれば今頃、きっと向かい合って眠っている。


 高校時代、「男に生まれたかった」と嘆く友達がたまにいた。彼女たちは、トイレの洗面台の前で時間の許す限り鏡を覗き込んでいたり、放課後と早過ぎる門限の狭間で恋をしていたり、授業中に何かを思い出しては深い溜息をついたりして、その台詞を口にする。彼女たちのことを、ダサいとも格好いいとも思っていた。若さと現実逃避はちゃんと似合うから。
「女の方が人生楽じゃない?」私はそう答えた。大人ぶりたかったのかもしれない。性別に損を感じたことなど一度もなかったけれど、男に生まれたかった、と思ったことは確かに一度だけあった。初潮(この言葉は保健体育の教科書と辞書にしかなかった)。トイレでいつも通りトイレットペーパーを使うと少し血が付いていた。お尻から出たのかと思って肛門に当ててみると紙は白いままで、尿に混じって出ているふうでもない。一瞬息が止まった。保健体育で習ったことがあるやつだと察知した。気持ち悪かった。自分の体が突然自分だけのものではなくなって、その宣告を受けたみたいだった。誰かに突き放された気がした。血液を見た瞬間、もう戻れないと感じた。それまでの日々が失われた。逃げ出したいほど悲しかった。現実を許容できなくて、染みのついたパンツに狼狽えた。どうか他人事であってほしかった。それが次にどのタイミングでどれくらい出るか分からなくて、垂れるかもしれないからそのまま座っていた。「ねー、真樹まだあ?」と姉にドアの前で怠そうに呼ばれた。「おかあさん呼んで」と返した声色が不穏だったのか、五つ歳上の姉は「え、何事? 大丈夫?」と急いで母を呼びに走ってくれた。
 母が来ると、「血が出てきた」とわざとこどもっぽく報告して、それから、新しいパンツと生理用ナプキンを受け取って、使用済みナプキンの捨て方などの簡単な説明を受けた、ような気がする。ドアの外に高校の制服を来た姉が立っていたことの方を、なぜかはっきりと覚えている。
 ずっと、自分の気持ちを理解することが得意だと思っていた。たとえば恋をしたとき、私は相手の気持ちが分からないから悩んだ。「自分がどう思っているのかが分からない」と言う友達の話を聞くと、だから少し苛立ったし、自分とは違うと感じた。「失って気づいた」もそう。
 それでも、彼女たちのことを好きだった。友達だと思っていた。もうちょっと自分自身の気持ちに踏み込んでみればいいのに、と思うことはよくあったから、「文ちゃん、まいにち深田君の話ばっかしてる」とか、「ちゃんと好きになれる人が現れたら、麻弥ちゃんは失う前にその人の大切さに気づけるよ」とか言ったことは覚えている。少しだけ未来で、彼女たちが幸せそうに笑う顔を想像して。
 昼休みが終わる頃、トイレの前で麻弥ちゃんの「最近ウザくない?」という声が聞こえた。自分のことだったらどうしよう、と不安で立ち聞きした。
「文も『なんでがんばらないの?』とか言われたわ」
「は? なんだけど」
 予感が当たってしまったので、少し遠い別のトイレまで行った。五限目のあと、文ちゃんと麻弥ちゃんは本当に普段通りの顔と態度で私に話しかけてきた。余計に信じられなくなった。自分の言葉が相手に対して優しくなかったんだ、考えを押し付けてしまっていたんた、と落ち込んだし反省するところもあったけれど、新学年でふたりとクラスが別れたとき、心から嬉しかった。

 卒業式を目前に控えた2月。進路が確定していたクラスメイト六人で海へ行った。
 自習期間に入っていたから、三階の廊下にも教室にも、生徒はもう疎らだった。「放課後」の概念は校舎でも制服でもなくて実は人間が生み出しているものだったのだと、放課後が、もう永遠にやってこなくなる間際になって知る。
 感傷に浸りはじめると、教卓とも机とも黒板とも離れ難かった。机に突っ伏して、席替えで窓際に当たると嬉しかったことを、窓際の後ろから三番目の席に座りながら思った。自習をする気など当然のように起こらず、首を窓の方へひねって空を見た。いかにもな冬晴れに、鈍く移動する雲。引きちぎれる直前の真綿みたい。
「やる気ない人ー! 海行かね?」
 真ん中の席で声を張り上げた男の子がいて、それが環君だった。
 自転車を駅の駐輪場に残して、各駅停車に乗った。海岸のすぐそばの駅で降りると、冷たい潮風に吹かれた。マフラーで唇まで隠して、ちょっと進むたびに見え隠れてする海まで、活気なく錆びた商店街をぞろぞろと歩いた。
 いざ目の前がひらけると、みんな口々に「お〜」とか「海ー!」とかそれなりにテンションを上げた。本当は青春ぽく裸足になり、海水に足を浸して蹴り上げたかったけれど、寒いし却下されそうなので黙っていた。そのまま波打際まで行くと、隣にいた環君がいなくなっていた。振り返ると、バランスを取りながら靴下を脱いでいる途中だった。環君とは気が合う感じがした。私も靴下を脱ぎはじめた。
「おいマジか」「寒いって」と、やっぱり怠そうな声が返ってきたけれど、ここまで来たという高揚感が圧勝して、数分後には全員が悲鳴を上げながら素足を海に浸していた。
 受験のストレスから解放され、卒業間際であることの感傷も、きっとそれぞれにあっただろう。この先無限に枝分かれし続ける未来を思い描けば、ここがこどもでいられる最後の時間かもしれなかった。
 じゃんけんで、負けた環君と私がジュースを買いに行くことになった。「自販機どこ……?」見当たらなくて楽しくなった。環君と一緒に負けたかったから、神様がくれた時間だと思うことにした。
 錆びた自動販売機がふたつ並んであったけれど、「コンビニまで行かない?」と誘ってくれたのでさらに歩いた。裸足のままだった。靴は? と口から出そうになったけれど、今日のことはずっと忘れないんだろうな、と静かで確信めいた予感があって、そのまま行った。自動ドアの前で微かに緊張したけれど、品出し中のよく動く店員も、レジで退屈そうな目をした店員も何も言わなかった。
 砂浜まで戻りながら、
「環君と、あんまり絡んでこなかったね」
 自分が残念に感じていることを、早口で正直に伝えた。
「俺も今それ思ってた、もっと喋っとけばよかった」
「今日楽しいね。海、提案してくれてありがとう」
「俺もさっき一緒に裸足になってくれたの嬉しかったわ」
 砂浜に出ると、みんなが海の方を向いて座っていた。
「今さらだけど連絡先教えて」
「あ、うん。じゃあ私も」
 卒業まで残り1ヶ月を切っていた。
 海での写真を送り合うと、なんとなくやり取りが続いた。電話で話すようになると、通話を切るのが真夜中だった。上京しても、と願いはじめた。
 卒業式の翌日、ふたりだけで映画を観に行った。私は東京、環君は名古屋にそれぞれ進学した。大学一年の四月の出会いの多さに目がまわりそうだったけれど、夜の電話は続いた。環君と喋る時間が好きだった。
 夏休み、帰省の予定を合わせて帰った。海へ行った六人で同窓会のように集まって、帰り道で環君に告白された。
 奇数月は環君が会いに来てくれて、偶数月は私が会いに行った。二回来てくれることもよくあった。高速バス自体にはすぐ慣れたけれど、帰りのバスの車内ではよく泣いた。いつもしんとしているから、なるべくいちばん後ろを予約して、声を殺して泣くようにした。
 会うといつもセックスをした。ピルは飲んでいなかった。コンドームは毎回つけてくれていた。
 冬休み、帰省の前に環君が東京に来てくれた。クリスマスだったから。私のマンションに四泊した。イヴは中目黒でイルミネーションを見て、クリスマスは部屋でケーキを食べた。あと、裸で過ごす時間が長かった。翌日もちょっと、服を脱がされることが多かった。「散歩しない?」と誘うと「うん」と返事はしてくれるけれど、また体を触ってきた。
 途中でコンドームがなくなった。
「待って、待ってやだ」
「外に出すから」
 そのまま続けた。
 コンドームを買いに行ったけれど、それ以降、環君にお願いしてもつけてもらえないことが増えた。
 生理を待つようになった。大丈夫かな、とぼんやり不安になることはあったけれど、その場の快楽に溺れていた。環君を受け入れていた。

 大学二年の夏のはじめ、一日中船酔いをしているような状態が十日ほど続いた。明らかに体調が悪くて、ご飯の炊き上がるにおいで吐いてしまい、姉に電話を掛けた。重大な病気かもしれないと疑って。
「真樹……妊娠してると思う」
 言葉が忘れたように出なくなった。
「聞こえてる? 検査薬、すぐ使ってみて。それから産婦人科ね。女医さんのとことか、調べたら出てくるから。真樹、大丈夫?」
「どうしよう」
「どうするかは、とりあえず結果を見てからだよ。検査薬試したら、絶対に連絡して」
「お母さんに言わないで」
「わかった」
 赤ちゃん用品の陳列棚の前をわざと通ったり、その反対に目を逸らしたりする日々だった。自分にはまだ無縁で未知でいていいはずの商品たち。
 妊娠検査薬の説明書の一番単純な部分だけを何度も読み、尿をかけた。
 陽性だった。
 比喩ではなく、手が震えた。姉に電話で伝える声が、自分のものではないみたいだった。母には言わないままにしてもらった。産婦人科には姉が付き添ってくれた。
「7週目に入ったところです」
 産婦人科医は確かにそう伝えてきた。その日のうちに、環君に電話をかけた。
「もしも産まない場合は、一日でも早く、」
 医師から言われた言葉を正確に伝えようとして、なかなか言えなかった。
 翌日、環君は大学とバイトを休んで来てくれた。セックスをしないで会うのは久しぶりだった。
 それから毎日話し合った。今日は産んだ場合で明日は産まなかった場合、と日を分けて考えていった。ただ、気がついていないようだったけれど、環君の想像が働くのは、圧倒的に産まなかった場合の未来だった。
 つわりが始まって以降、一度も自炊をしていなかった。食事というものが駄目になっていた。大学も休んでいた。環君が体に優しそうなものを作ってくれたけれど、食べられなくて申し訳なかった。
 お腹の中の赤ちゃんが9週目に入ったところで、環君が「ごめん」と泣きながら私に頭を下げた。
 優しさだと思う。正直、初めからわかっていた。環君が私に、おろしてほしいと思っていたこと。

 私のお腹の中にやってきた命が、誰からも「おめでとう」と言ってもらえないまま死ぬことに気がついた。あまりにやるせなくて、もうすぐこの命を消すと思うと、自分の中に芽生えたものを殺すと思うと、生きていく力なんて、もう戻らなくていいんじゃないかと思えてくる。「おめでとう」と声に出してみた。腹立たしいほど涙が出て、いつか止まる涙なんか流すなよと、自分を消したくなる。下腹部を撫でながら、「おめでとう」と微笑んでみた。私、死ねばいいのに。

 待合室で、環君はずっと私の手を握っていた。励ましのような言葉もずっと聞こえていた。けれど環君が何か言えば言うほど体が震えた。
 かたくて無機質な台の上で、セックスのときと同じくらい脚を広げて、残酷な行為を待つ時間があった。死にたかった。朦朧とする意識の中で「やだあ、やだあ」と何度も駄々をこねた気がする。看護師さんが宥めるように肩を撫でてくれたはずだったけれど、そうやって、逃げないように抑えつけているとしか思えなくなって悔しかった。

 自分の選択を「間違った」と言える人には余白という可能性があって、「間違っていなかった」と言える人には強さがある。それなら、永遠に「わからない」ままにしてしまった自分には、何があるだろう。

 土曜日の午後、旦那さんが近くで明日夏ちゃんをみてくれているというので、二時間だけ、ふたりで外苑前のカフェに来た。
 会ってすぐに「なんかあった?」と訊かれて、友達ってすごいと感心した。
「章ちゃんに、『結婚してみよ』って言われた」
「は? え? プロポーズ?」
「というか、結婚に向けた話し合いみたいなやつ」
「ロマンチックはどこ?」
「自分が結婚していいのかわからない」
「なんでなん?」
「私、二十歳のときこどもおろしてる」
 珠子ちゃんは、あまり驚いていないみたいだった。
「引かないの?」
「え、なんで?」
「子育てしてる人とかこどもを望む人にとっては、許せないことなイメージがあるから」
「じゃあ何で教えてくれたん?」
「話してもいいなって思える人が他に思いつかなかった」
「嬉しいわ」
「うん」
「思ったことゆっていい?」
「どうぞ」
「命やからさ、それは最も重くて大切なものに違いないねんけど。私もな、ほんまは不妊治癒して明日夏を産んでん。せやから人がひとりこの世に生まれてくるってことが、どんだけ大変でとんでもないことか、人ひとりぶんたけは知ってるつもりやねん」
「うん」怖かった。続きを聞くことは怖い。
「けどなあ、真樹ちゃん。私心から思うねんけど、真樹ちゃんは生んであげられんかった赤ちゃんのために、生まれてきたわけじゃないんちゃうかな。真樹ちゃんはどんな人生を選択しても真樹ちゃんのままやと思うわ」
 「手え出して」と言われたので従うと、珠子ちゃんは私の手を握った。「なんぼなんでも震えすぎやろ」と笑うので、釣られた。
「罪を背負える限り背負って生きてんねやろうけど、選ぶしかなくて選んでんやろ? じゃあ、その人生をちゃんと生きいや。ほんまに悪いことしたと思てるなら、なにがなんでも自分の幸せを選びに行かないかんのんちゃうん。そうじゃなかったら、なんのために、あのときあの命をおろす選択したんってなるやろ? 私が悲しいんは、真樹ちゃんが、そのとき傷ついた真樹ちゃんを救ってあげようとしてへんことやねん。誰も、誰かの人生を代わりに生きることなんかできひんねんから」
 私はただ聞いていた。
 銀杏並木の葉擦れの音が優しい。
 興奮で一気に喋った珠子ちゃんも泣いてしまい、そのまま黙って、目の前の飲み物をゆっくり啜っていると、明日夏ちゃんをベビーカーに乗せた旦那さんがやってきた。
「いや、早ない?」珠子ちゃんが悪態をつくと、旦那さんは「すみませぇん」と遠慮がちに笑っていた。ああ、私たちが泣いているから気まずいんだ。
 明日夏ちゃんと目が合った。「抱っこしていい?」と珠子ちゃんに聞くと、予想以上に嬉しそうに、ベビーカーから明日夏ちゃんを抱き上げて、私の膝まで乗せに来てくれた。
 思ったより重たくて温い。









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