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うつ病と診断されて幾年月(その1)

おそらく心が病み始めたのは、母の介護と仕事が両立できなくなった頃だと思う。

母は東日本大震災のその日にくも膜下出血を起こし、生死を彷徨い、その半年後に軌跡の復活をした。
くも膜下出血からの水頭症発症をし、そこから介護生活が始まった。

当時の私は長年勤めていた会社からリストラ宣告受けて会社都合で辞め、短期の派遣で繋いでいた頃だ。
尚、リストラの理由は「東日本震災による経営難」という立派な名目があり、社員の中で一番の若手だったからだ。
他にリストラされた社員さんも定年間際の高齢で第二の人生を謳歌したいと云う理由だったり、ご実家(福島)の震災生活が大変だからと言う理由で、割と穏やかなリストラだったと思う。

私は退院した母を在宅介護をしながら、派遣で働いた。派遣だけでは心許なくて、たまにハローワークを覗いては気になる求人にエントリーしまくっていた。
そんなとき、ある個人経営の出版社に運良く正社員に採用され、採用期間で働き出すことになった。

だが、そこは闇以上の暗黒な企業だった。
上司のパワハラは当たり前。言葉の暴力当たり前。仕事の量は5人分。
ある大学教授の出版物があったが、取り繕ってくれるはずの真面な営業がなく全てオペレーターに丸投げ。肝心の執筆者は研究に没頭中なのか、電話やメールでは捕まらない。
なので、自然と残業時間が終電間際なのは日常茶飯事。

そんな中、事件が起きた。
夜帰宅すると母が大便と失禁したまま、部屋で倒れていたのだ。
慌てた私。母は寝惚けてはいたが意思の疎通は出来たので、救急車を呼ぶところまでには至らなかった。おそらく、テレビを観ながら意識朦朧としてその場で用を足してしまったのだろう。
深夜の2時。パワハラ上がりの私は半泣きで母を風呂に入れたり、汚物の床を拭いたり、アンモニア臭の匂い消しをしたのをした。
片付けが終わり、気がつけば朝の4時だった。

翌日、というかその日も平日だったので、2時間だけ仮眠をして私は出勤をした。
母はと言うと、用を足したことを既に忘れていて、デイサービスのお迎えを待つというお気楽な状態でいたと思う。

そんなこともあったので、社長に直談判をすることにした。
「母の介護のため、定時に上げてもらえないでしょうか」、と。

…………その時の社長の返事が、「そんなの、あなたが無能だから残業するのでしょ?」

絶句した。
5人前の仕事を渡され、更に上司から言われなきイヤミといじめを浴びせられて、その上、社長からは無能と言われるとは……

会社とは一体なんなんだ?

目の前が真っ暗になった。
精神の糸がプツリと切れ、堪忍袋の尾も切れた。
うつ病の芽が伸び出したのはおそらくこの頃だろう。
その後日、3ヶ月間の採用期間が終わり社長を含めた重役との面談が行われた。
どうやら私の働きぶりは、社長と重役は気に入っていたようだ。正社員としての継続を打診された。が、私は言い返した。

「母の様態が心配なまま、この仕事は続けられません」

嫌味を言われたのを根に持っていたこともあったが、事実、また母が夜中に倒れていることがあるようなことがあったりでもしたら洒落にならない。
この社長は家庭の事情より自分の仕事のことしか頭にない。その時の残念がる顔は「またダメだった」という表情に見受けられた(なお、この会社は今もハローワークなどで紹介されている)。

私は、人が、対人が怖くなってきた。

この会社を辞めてからは、また派遣で働くようになった。
介護生活と派遣は両立しやすく、会社へのしがらみもない。自由人な自分の性にも合ってはいた。ただ、手取りが乏しいことを除けば。

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