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【小説】縦走

 ある夏、私は独り山の中にいた。
 雨の降る樹林帯を雨具を着て、背負ったザックには雨避けのカバーをつけて歩いていた。雨具のフードを被っていてその下に登山用の濡れてもすぐに乾くキャップを被っていた。その庇から水滴がぽたりぽたりと落ちる。
 昨日は、晴れていた。絶好の登山日和と思い家を出た。駐車場のある登山口から、入山し、途中にある山小屋前のテント場に昼頃着きテントを張った。午後はビールを呑んだり、昼寝をしたり、登山ノートを書いたりして過ごした。私は山に行くときは登山ノートを持って行く。最近ではそれ用のアプリなどがあって、スマホを使って、登山記録などを書くことが流行っているようだが、私は紙のキャンパスノ―トを持って行き、ボールペンで文章を書く、小屋の前のベンチで、あるいはテントの中で。この文章も、山で書いた物をもとに書いている。
 山の上で書く文章は下界で書いた物とは違う。特に頂上で思ったことを書くときほど楽しいことはない。
 私は昨日はただ樹林帯を登り、樹林帯の中のテント場に泊まっただけだから、書くことは限られていた。しかし、登山道を歩きながら考えることは多い。私は書くために登るようなところもある。
 まあ、とにかくそんなふうにして昨日の午後は小屋とテント場でまったりと過ごした。夕食は自分で用意したラーメンを食べた。
 テントの中で眠っていると、フライシートに雨の落ちる音で目が醒めた。
「ああ、雨か」
そう思っただけで私はまた眠りに入った。
 朝起きると、やはり外は雨だった。
 しかし、出発はしなければならない。私はこの山脈の縦走をすると、決めたのだ。
 私は雨傘を差して、小屋のトイレに行き、用を足すとまたテントに戻ってきて、コーヒーを淹れた。朝食はパンだった。
 朝食が終わると出発の準備をした。雨の中でテントを撤収するのは面倒だった。
 そうして、私は今、樹林帯の中を雨に濡れながら歩いているのである。
 そして、ようやく、標高が上がり、樹林帯の木々も背が低くなってきた。
 道も岩場が増えてきた。徐々に木々は這松に変わっていき、ついに、森林限界を越えた。もう景色は大パノラマである、はずだった。
 天気は雨だ。周囲の景色もガスで見えない。私は落胆して、山頂への道を登っていった。
 山頂には山の名前が書かれた看板があった。
 私はそいつの上に手を置いた。景色が見えない以上、ただ、登頂したぞ、と満足するほかになかった。
 私は山頂で昼食のパンを食べる予定だったので、石の上に雨具を着た尻を降ろして、また朝と同じコーヒーと菓子パンを食べた。
 そしてまた出発だ。
 私は山頂を降りた。
 次の宿泊地は稜線の鞍部にあった。小屋があり、その前にテント場があった。私は小屋で手続きをし、テントを張るのに良い場所を探して、テントを張った。
 テントに入ると、私は濡れた服を着替えた。天井に張った紐に脱いだ物を掛けて乾かした。明日の朝には乾くだろうと思った。
 私はすぐに寝袋に入った。まだ、正午だった。
 時間を忘れて眠ったあと、私は外が明るいことに気づいた。テントから外を覗くと、青い空が見えた。
「お、晴れたぞ」
私はすぐにテントを出て、見晴らしのいい場所に向かった。ここは稜線で、東と西の両側に素晴らしい景色が見られるはずだった。
 東には青空が見えたものの、下の方の雲が厚く、山々の姿を見ることはできなかった。しかし、西を見ると山脈の峰々が神々しく連なっていた。
 これだ、これが見たかったのだ。
 山に来て他の山を見る。これはどういうことだろう?自分の今いる山は絶対に見ることはできない。私は山に登って他の山を見ることを何よりの楽しみとしていた。しかし、自分のいる山こそが、自ら登った山に違いないのだ。
 私は時間があるので小屋でビールを買った。外で絶景を見ながら飲むビールは美味かった。酔った私は随分長い間、西の山々を見ていた。それでも時間があったのでテントに入り、ノートに文章を書いた。
 そして、私は夕日を見ることを楽しみに、夕暮れ前の夕食を済まそうと準備をした。レトルトのカレーだ。温めるのに十五分以上かかった。そして、温めたお湯は少し汚い気もするが水場のないここでは、無駄に捨てることはできないと思い、ボトルに戻した。カレーは美味かった。
そのあと、私は夕日を見るために外へ出た。西側が見える場所に行くと、もう夕日は雲の向こうに隠れていた。空はオレンジ色に染まっていたが、肝心の夕日は見えなかった。しかし、空は神々しい色に見えた。夕日が沈むまでずっと見ているのが私の楽しみだったが、次第に雲が厚くなり、また天気が崩れてきた。私は仕方なくテントに戻った。
 夜になるとまた、雨が降り始めた。
 明日は下山だ。
 今回の縦走では唯一、今日の西の山脈の景色だけが見えた。それで満足しなければならないのだろうか?私は翌朝の日の出に賭けた。朝早く起き、東の空に昇る朝日を見ることができれば、すべては良かったと言えると思った。
 しかし、翌朝、腕時計のアラームに目を覚すと、外は雨がしとしと降っているばかりだった。朝日など見えないことは明らかだった。私は湯を沸かし、コーヒーを淹れると、パンを食べた。雨具を着て、テントを畳んで、出発した。
 今日は、ただ、下山するだけだった。樹林帯の中をただひたすらに降りた。フードを被った下のキャップの庇には水滴が垂れた。
 次第に小雨になってきた。
 森の中では雨粒があまり体に当たらなくなってきたので私は鬱陶しいフードを脱いだ。そして、しばらく歩くと、もう雨は完全に止んでいた。
 ついに、登山基地に下山すると、空は完全に晴れていた。絶好の山日和だった。私は明日は仕事があるので帰らなければならなかった。
 登山基地からバスに乗って駐車場まで下りた。市街を車で走るとき、私が登った山が、美しく日の光を浴びて輝いているのがバックミラーに見えた。
                                    (了)

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