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統合失調症になった私が、統合失調症を勉強しなかった理由

最近、統合失調症について書く内容がなくなってきた私は、この病気について哲学的に考察してみようと試みてみた。しかし、コメントで指摘されたことなどを考えてみると、どうも私には客観的に統合失調症について論じることはできないようだと思った。なぜなら、私はこの病気についてほとんど勉強をしなかったからだ。
なぜ勉強しなかったかというと、勉強すると批判的な私は精神医学を批判してしまい、勝手に断薬などしたりして、治療にとって良くないことになりそうだったからだ。私は精神科の初診を受けたとき、脳の手術も覚悟で行った。早く楽になりたい、その一心でロボトミー手術をして、アホみたいにボーッとした人生も今の苦しみから逃れられるならば、それでもかまわない、そう思った。つまり、精神科医は神だった。疑ってはいけない存在だった。その神が薬で治療する、と言ったので私は処方された薬を飲んでいればいつか良くなるだろう、そう信じた。疑うならば精神科を受診した意味がないと思った。よく見かけるのが、精神科を受診して薬を処方されていて、やたら、精神薬に詳しい人だ。そして、そういう人は自分の満足できる薬を処方しない医者は信用しない傾向にあるのではないかと思う。私はそういうのは禁じていて、精神科医は私の外側から私を救ってくれる神聖な存在である。信心深い人は神を信じるが疑ったりしない。神や仏を素朴に信じている人が精神的安定を得られるように、私も精神的安定を得るためにすがる存在が精神科医だった。もちろん精神科医も人間だから、その人格まで神聖視しているわけではない。そうではなくて彼の背後にある、精神医学の蓄積された経験と技術に敬意を表しているのである。
これからは、もう統合失調症について書き尽くした感はあるものの、書いてみたいと思うこともあると思う。そのときはなるべく主観的な内容にしようと思う。私はただの当事者であり、客観的に精神医学を語れるような勉強はしてこなかったのだから。しかし、ただの当事者ではない。考える当事者である。

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