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『ゴジラ-1.0』を観て思うこと

今、『ゴジラ-1.0』を観たところだ。
面白かった。
以前、映画館で観た人の感想で、主人公の思いは表現できていたが、ゴジラの側の物語が欲しかった、という物があった。たしかにこの映画ではゴジラがなぜ、東京に向かうのかが描かれていない。しかし、私はそれでいいと思う。だいたい、怪獣の思想などわかりっこないのだ。わからないから怖いのだ。エヴァンゲリオンの「使徒」も謎の存在だったからよかったのだ。怪獣の思想はどうでもいい。『エイリアン』が怖いのは、エイリアンがただ、襲ってくる存在だからだ。相手がわからないほうが怖い。自分の家の犬は可愛いが、他人の飼う犬は怖いというのと同じだ(いや、例が適切でないか?)。とにかく、ゴジラがなぜ東京を襲うのかというのは、私は全然こだわらない。ただ、この映画は途中で結末が読めてしまったところが、もったいない気がする。
「命を粗末にするな」という思想が戦後日本には絶対君主のようにある。もちろん、粗末はいけないが、適切に使うのはいいと思う。
私は小説を書く人間であるが、去年の一月六日から今年の五月一日まで即興で長編小説をほぼ毎日書いた。しかし、書き終えた時の満足感、達成感、陶酔感が弱かった。それに比べると、私は冒険ファンタジー長編小説を四作書き溜めているが、その一作目は、このnoteにも掲載している『空中都市アルカディア』という作品だ。これを書き上げたときは深夜二時か三時だったが、もう死んでもいい、という自己陶酔感があった。その瞬間はやりきった感があり、本当に死んでもいいと思った。ただ、まだ、私は生きていた。そして、次の冒険ファンタジー作品を半年かけて書いた。この時も「もう死ねる」みたいな陶酔感があった。そのあとの二作も同じような陶酔感があった。
私は戦争や暴力は絶対にあってはいけないが、平和な世界で平和的な命の賭け方があると思う。それがないただ安全なだけの人生は面白くないと思う。
私は小説とは別に趣味で登山をしている。去年は剣岳に登った。これは文字通り命懸けだった。しかし、平和の中であえて命を危険に晒す行為は、それ自体が平和の目的かもしれないと思う。ただ、怖いからと命を賭けないのは、やはり臆病者だと思う。
スポーツなども危険と隣り合わせのところがある。でも、それを恐れていたらスポーツはできない。ラガーマンは歯が折れても、再び試合に出ようとするだろう。そういう情熱がない人生は面白くない。

『最低な三人の異世界転生ドラゴニア冒険記』


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