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英語話者の謝罪の仕方について。(シュダ、ウダ、クダ。あのときぼくはああすべきだった。)

Shoulda Woulda Coulda。いかにも英語話者らしい言い回しではあって。もしも自分があのとき正しい選択をしていたならば、おのずと現在の自分は幸福な現実を生きていたはずなのに、しかし、自分は誤った選択をしてしまったがゆえに、いま自分は苦境に立たされている。そんな後悔の気持ちを表現しています。人生は選択の連続ですからね、そんなこともあるもの。


Brian McKnight のこの歌の主人公は、浮気でもしたのがバレたからかしらん、恋人がいままさに去ってゆきつつああるその最後の瞬間に、かれは彼女に切実な謝罪することで、自分に愛想を尽かしてしまった彼女の気持ちをなんとか翻し、もとどおりの愛を取り戻そうと奮闘しています。まさに、Shoulda Woulda Couldaの世界です。



英語話者の謝罪のテンプレートがここにあります。なるほどかれらは考える、人は主体的に生きるものゆえ、たとえ自分が行った選択の結果が悲惨なものになろうと、その地獄もまた自分が引き受けなければならない。そんな厳しい人生観が感じられます。なにしろクリスチャンの人生のエンディングには最後の審判が控えていますからね。


他方、もしも日本語話者がたとえば浮気でもバレて恋人を激怒せてしまったならば、「ごめん。おれが悪かった。許して。」と連呼するばかりではないかしら。(村上春樹さんを例外として、日本人はけっして英語話者のように論理的な謝罪はしないでしょう。だって、日本人は仏教的世界観を内面化していますから、諸行無常が基本です。つねに煩悩は現れては消えるもの。もちろん罪を犯し、大事な人を激怒させてしまったならば、懸命に謝罪して、なんとか赦しを請う。ただし、その謝罪にシュダ、ウダ、クダの「たられば」もレバニラもありません。



他方、英語話者は謝罪だけでは足らず、謝罪の背景説明を要求します。自分が成した行為のどこ対する謝罪であるのか、自分が成した過ちをどこに見ているのか、どうすれば過ちを犯ささずに済んだと考えているのか、そこまで示さなければかれらはとうてい納得できません。さすがにこれは日本人にとって馴染のない習慣であり、かつまたたいへん厳しい要求でしょう。


日本人にとって英語がなかなか身につかないのは、実はこういう我彼の世界観の違いに由来するのかもしれません。また、多くの外国人が「日本人はなに考えてんのかわかんねー」とボヤくのも、同じ理由なのかもしれません。



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