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ギャルちゃんと東大女子は、どっちが得か?

もちろんそんな問いに正解などありません。しかも、東大とて三万人弱も学生がいるわけですから、なかには〈ギャル系東大生〉がいないとも限りません。また、東大女子もギャルちゃんもともにジェネレーションZに属し、最初のデジタルネイティヴで、Wifi環境でスマートフォン常時接続で育った世代です。したがってスマホの使い方こそ違えども、お互いに共通の価値観がないはずがありません。ただし、ここでは両者を切り分けて話を進めてゆきましょう。



ギャルちゃん(Gyaru)と東大女子は、人生戦略がまったく違います。ギャルちゃんたちはかわいい戦争を闘う戦士です。しかも、髪型もメイクもファッションも日々アップデイトされるものゆえ、日夜情報収集と新しいテクニックの習得が欠かせません。しかも、メイドカフェ~コンセプトカフェでバイトでもしようものなら、会話のテクニックも身に着くもの。「さすが!」「知らなかった!」「すごいッ」「センスいい♡」、これこそまさにアホな男たちをよろこばせ、男たちが鼻の下をびろ~~んと伸ばす魔法の相槌です。



他方、東大女子は東大によって、観念操作に習熟し、官僚社会、研究者社会に参入できる能力をさずけることを目的にした教育をほどこされます。東大生は山のように本を読み、脳内に厖大な量の知識を詰め込み、情報処理能力に卓越してゆきます。東大生のノート術みたいな本が話題になるのも当然でしょう。




こうして東大女子は、男脳になるように教育されてゆきます。たとえ東大女子がフェミニスト戦士になることを選ぼうとも。なぜならフェミニズムもまた左翼思想のひとつであり、マルクス主義の派生形。したがってフェミニストは男脳でもって、男社会と闘っています。



もちろん、こういう考え方には〈知識社会はマッチョな世界〉という前提があって。そこには性差についての偏見が潜んでもいるのだけれど、ただし、これは現実ですから致し方ありません。昭和のおじさんは言ったもの、「女だてらに東大なんか行くもんじゃない。」(後期昭和はまだ社会が安定していて男/女の棲み分けもまた温存さてていましたからね。)いまならば問題発言でしょうが、しかし、女子のための処世訓としてはいまなお考えさせられるものがあります。



また、東大生とて官僚にも研究者にもなれず、また就職試験にものきなみ失敗してしまう人も多い。しかも研究者の道を選んだとて、非正規雇用からの出発で30代はイバラの道、しかもその後の安定が保証されているわけでもありません。そうなるとかれら彼女らは肥大したプライドを抱え、ともすれば貧困層に崩れ落ち、困難な人生を生きるはめに陥ります。果たしてそれは自己責任でしょうか? いいえ、それは大学教育がけっして実社会で生き抜く術を教える場所ではないからです。もともと学問はそういうものであって、それがあたりまえなもの。しかし、それでも後期昭和までの社会が安定した時代ならば社会の側にかれら彼女らを受け入れるポストがたくさんあったもの。しかし、近年そんな場所はたいへん限られています。高学歴プアは社会構造的な問題です。



他方、ギャルちゃんたちは保守的な大人たちの目には軽薄に見える自由奔放なファッションをあえて誇示する、日本社会のオルタナティヴであり、ややもすれば反逆者であり、そしてギャルちゃんたちの世界(閉域)に特化した価値観を持つ少女たちです。したがって、彼女たちは社会的な言語を使うことができません。極端な話、テレ朝のニュースステーションのキャスターをギャルちゃんが務めることを想像してみましょう。お笑いコントになってしまいます。またギャルちゃんの人生は十年間の短期決戦ゆえ、その後の人生が心配にもなります。大きなお世話でしょうが。



なお、この話題は男にもまた言えること。偏差値の高い大学の大卒院卒は観念操作に習熟し、おのずと話題も観念的になって、世間話の仕方を忘れてしまいます。(それでも関西の大卒院卒はまだましですが。なにせ関西は吉本興業文化圏で、関西人はみんなお笑い教育をもほどこされて育ちますからね。)大卒院卒とは対照的に、中卒高卒のワーキングクラスには観念的な会話などほぼなく、あらゆる会話に具体性があって、生活実感がこもっているもの。しかもかれら彼女らは五感を使って生きていますから、みんなそれぞれ話もおもしろい。それに対してインテリっぽい人たちは文字情報によって知識を得ていて、知識ベースで話をする。したがってかれらはみんなどこかで読むか聞くかした話をするようになる。インテリっぽい人たちはけっして、ギャルちゃんたちやワーキングクラスの人たちの会話に参加できません。


いまの人は一見みんな揃ってインテリっぽくなっているかのように見える。ただし、1990年以降没落傾向にある日本では大学進学をあたりまえのものと考えることができる家庭はいまや半数ていどであって。そのせいかどうか、平成以降日本では知識人に対する尊敬の念もきわめて薄れてきていて。いまの知識人はホリエモン、ひろゆき、Daigoさんであるかのようにさえ見える。(なお、かれらは「いますぐ役立つお得な情報」の提供者たちです。近年IT技術が世界を支配していて、それは数値化、計量化、アルゴリズム、構造化がベースになっています。したがって、教養などという即効性のないまどろいっこしいものは残念ながら価値が暴落しています。)しかも、すでに中産階級は崩壊。スキルを持たない人文系インテリたちの職場もどんどん減っています。それに対して、ギャルちゃん、鮨職人、鳶職、土建業、長距離ドライヴァー、みなさん生活実感があって、しゃべる言葉もシンプル、世間で生き抜く知恵を持っていますから、たくましい。なお、とかく世間でギャルちゃんたちに注目が集まるのは、彼女たちがいかにも自由そうに見えて眩しいのではないかしらん。逆に言えば、おまえも自由になれ、おまえ自身が輝け、ということではあるのだけれど。



なお、以上ぼくが書いた文章を読むギャルちゃんは(残念ながら)いないでしょう。いつかぼくもギャルちゃんにも読まれる文章を書いてみたいもの。それがいったいどんな文章なのか、いまのぼくには想像もつかないけれど。まずは、赤荻瞳さんの『鬼強ギャルマインド 心にギャルを飼う方法』(SDP刊 2023年)でも読むべきかしらん?




なぜかやたらとくわしいUK WikipediaのGyaruの項目。(話題はもっぱら平成ギャルについてですが。)




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