見出し画像

親切なおばちゃんのこと。

ある朝、いつものように混み合う通勤電車へ乗り込んで70代とお見受けする小柄なおばちゃんが腰を下ろしている座席の正面に立ったことがあった。
最初のうちこそぼんやりと腰を下ろしていたおばちゃんだったが、そのうちにこちらを窺いながら荷物を触ったりしてソワソワし始めた。しめた、これは次の駅あたりで降りるんだな、今日はツイてるぞ、とわたしは期待に胸を膨らませた。だが、おばちゃんは次の駅でもそのまた次の駅でも降りることなく依然として目を泳がせソワソワし続けていた。どうしたんだろう、降りる駅がわからないのだろうか。今度は心配になってきた。
やがておばちゃんが意を決した風に腰を浮かし、わたしに小声で話しかけてきた。


「妊娠されてます?」


その日ぶかっとしたワンピース姿だったわたしを妊婦と勘違いされたようだが、いくら医療が進化した昨今とはいえ、還暦の2文字がいよいよ射程圏内に入ってきた今になって妊婦さんと間違えていただけるとは恐縮極まりない。
「違いますから、大丈夫ですよ。座っててください。」
と笑顔で応えてみたものの、おばちゃんはこちらが遠慮していると思ったのかそれでもひどく申し訳なさそうにどうぞ、と席を勧めてくれる。本当に親切な方である。

「いや、ほんと、ほんとに違いますから。」
わたしももう一度そう答える。なんかもう恥ずかしい。
そのタイミングでわたしがその場を離れるのがスマートだったのだろうけど、あいにく朝の通勤時間帯の車内はかなり混み合っていた。周囲に声かけしながらでないと移動は困難で面倒くささが先に立ち、無粋というか無神経にもそのままおばちゃんの正面に立ち続けてしまったのだ。
ふたたび腰を下ろしたおばちゃんは、今度は不自然に俯いたまま微動だにしなくなってしまった。まったく視線を上げようとしないおばちゃんの前でわたしはお腹の前にバッグをぎゅっと押さえつけるようにして持ってみたりして「ほら、全然妊娠していませんよ」アピールを続けたのだった。

その後おばちゃんとわたしの間にはうっすらとした緊張感が漂い続けた。もはやおばちゃんは念仏でも唱え始めそうな雰囲気だった。やがて電車が下車駅に到着して、わたしは乗降口に向かって移動を始めた。ホームに出る直前にちらりと振り返って確かめてみると、おばちゃんがホッとした表情で顔を上げ、みじろぎしているのが見えた。

ぶかっとしたワンピースはクセ者だ。
親切なおばちゃん、ほんとすみませんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?