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なぜ植物園に足を運んで写真を撮るのか


今年に入ってからすでに県内外5箇所の植物園を訪れ、1000枚以上の写真を撮っている。そのうち250枚程度はプリントして、眺めて楽しんでいる。
今回はどうして僕が夢中になって植物園を訪れ、写真を撮り続けているのかについて語りたいと思う。

きっかけとして衝動としか言いようがなく、誰かを納得するようなきっかけを説明することはできない。天啓のように「めちゃくちゃ今、植物園に行きたいかも」と思ったのだ。そして僕はその啓示のままに神代植物園に足を運び、そしてハマった。最初は植物に囲まれるのが気持ちよく、普段コンクリートの上を歩いているから、植物のグリーンなりマイナスイオンなりがデトックスとなって僕にヒーリング効果を与えているのだろうと決めつけていたのだけれど、冷静になってみると僕は山にも登るし森を散策することもある。でも僕が植物園で得ている昂りは単に植物に囲まれているから得られているわけではない。少なくとも、僕が植物園に行きたくなった時に、山に登ったり森に入ったりしてもそれは満たされないだろうという確信がある。それは対処療法的に一旦は僕の心を満たした(ような気持ちに)させるだろうが、また植物園に行きたい衝動はすぐにやってくるだろうと思う。



まず僕は、植物園にある温室の箱が好きだ。無機質な冷たい金属のグリッドに植物が閉じ込められている様をみると感動してしまう。その中には植物の存在と湿度と匂いが充満していて、それは外からでも十分に感じることができる。徹底的に管理された自然、という(ある種本来あるべきではない)歪みのような状況が心の琴線に触れているのかも知れない。



ただ植物も黙って管理されているわけではない。少しでも油断するとどんどん大きくなるし、枝葉を伸ばしてあたり一面を飲み込もうとする。本来人間が敵う相手ではないという感じがする。それを思い知らされる。

僕は植物園や温室が大好きで足繁く通っているけれど、植物が好きなのかと言われるといささか疑問だ。嫌いとは思わないけれど、その一方でエイリアンみたいで気持ち悪いなと思うことはよくある。それは見た目や形の問題ではなく、「本当は植物園では制御できないのではないか」という自分より遥かに高い繁殖力を持った相手に対する恐れ・畏敬の念のようなものだ。



無機質で人工的な管理された空間、そしてそこで際限なく増殖する植物。均一な温度と湿度。植物の良さというよりは、ヤバさというか、恐ろしさ、一種のキモさみたいなものを写真で表現したいと思っている。


窓から覗いたバナナの木などは「おいで、こっちへきてごらん」とでも言いたげに枝をもたげ、こちらを見ているように見える。どの植物園も植物で満たされ、しかしそれらは人間によって管理されている。同じ植物園は一つとしてない。少なくとも今まで訪れたすべての植物園はそれぞれ全然違うラインナップだったし、順路や見せ方の哲学もまた違っているように思えた。


写真というのは空間と時間を切り取る行為だ。1秒の250分の1くらいの時間を箱の中に閉じ込め、紙にそれを表現するプロセスのことだ。僕はカメラという機械を通じて植物園を時間のレイヤーで細切れに抜き出し、さらに他の植物園と一緒にそれらを数珠繋ぎに貼り合わせ、ありもしない長すぎる植物園を作ろうとしている。それは植物園をバラバラにして再構築する作業だ。


読者は僕の視点を通じて植物園を追体験し、植物園の良さや心地よさを得るのではなく、むしろ植物の持つキモさや不気味さを味わってほしい。「ちょっと凄すぎるよね」というエネルギーを僕と同じように感じてほしいのだ。






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