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#144 苦戦する子どもたちへの合理的配慮と支援

■学校のなかで苦戦している子どもたちへの支援

理解しようとすることからすべては始まる


年明け早々だった。
4年生が卒論で「ダイバーシティとインクルーシブ教育」をテーマにして書きたいということで、私にアドバイスを求めにきた。

チンパンジーの私である。
どうアドバイスすればよいかアドバイスしてもらいたいくらいだ。

「で、締め切りはいつなの?」

「1週間後です」

「お~い!無茶言うな!間に合わんだろう」

「いえ、8割くらいの仕上がりなんですが、どうもまとめ方が今ひとつなんです・・・・」

「8割で今ひとつなら、いつも5割程度の出来映えの私は今ふたつ、今みっつということになるじゃないか」

「何をおっしゃいますか!
先生の授業はいつも分かりやすくてユーモアがあって・・・・」

「出来映えとユーモアは別だろう!
で、チンパンジーの私に卒論を書いてくれと?」

「いえいえ、とんでもないです!
先生に原稿を読んでいただいて、僕に欠けていることや不備をご指摘いただきたくて・・・・先生はその分野もご経験されていると友達から聞いたものですから」

そんなやりとりをしながら、私が授業で使っている資料も提供し、ちょっとだけアドバイスした。


10年前から取り組み始めたことがある。

自分が対応してきた事例や、官製の研修会や支援団体の研究会、講演会で学んだ成果がある。

発達に障がいがある児童生徒を普通教育学校で受け入れるための環境をどう改善していけばよいか、教職員向けに講話したり研修会も重ねてきた。

その間、2016(平成28)年には『障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律』(通称「障害者差別解消法」)が施行された。

高校退職後に大学に勤め、教職課程の講義でも扱っている。

ダイバーシティ(多様性)とは何か。
インクルーシブ(包摂ほうせつ)とは何か。

法律が施行されてもなお、日常的にそういう場面に直接的に出くわしたり関わったことがないという学生は多い。

私自身、当事者とその家族と向き合いながら摩擦が生じたり、マスメディアと戦ったり、いろいろな経験をしてきた。

未経験な学生は実社会に出てから実務で経験を積むしかない。

2024(令和6)年4月1日からいよいよ合理的配慮の提供が義務化される。
雇用主(事業所)の義務である。

これを踏まえて、社会と近いところに位置している高校や大学、特別支援学校も、児童生徒や学生の在学中にすべきことがあるはずだ。

【内閣府資料】

概念と実際の対応にはギャップがある。

それは人々の理解の仕方の差でもある。
なおかつ当事者とその家族への寄り添い方の差にもつながる。

学生と一緒に資料探しをして見つけたものが非常にわかりやすかった。

ティーンズ/発達障害のあるお子様向けキャリアデザイン教育で配付されている資料だ。

合理的配慮を視覚化すると・・・・・

TEENS資料

■私の講義概要

(1)持ち味を伸ばす
発達障がいであっても、教育の目的はその子どもが個性や持ち味を出せているかどうかが重要。
方法論には若干の工夫が必要で、彼らは少数派(マイノリティ)だから、多数派(マジョリティ)と同じ方法論でアプローチすると摩擦が生じ、支援者も被支援者もイライラがつのる。

(2)プラスアルファ
教育の神髄や熱意だけで発達障がいに対処できるなら(何とかなるなら)、それでよいが、多くの場合、それだけで迫ってもどうにもならない。
神髄+αが必要。
神髄の考え方が間違っているのではなく、神髄を彼らと共有することが難しいだけ。ほんの少しだけ彼らに合わせた教育を工夫しなければならない。

(3)数の差
定型発達は「多数派の発達」というだけのことであって、優劣の差ではなく「数」の差と認識すべき。少数派に少しでも配慮が行き届けば彼らも輝ける。

(4)いい感じがわからない
障がいがあるということは、自分の意思を上手く伝えられず、いろんな人と「いい感じで付き合う」ことが上手にできない。
「いつ、どこで、何を、どうやって、どれくらい、次は○○する」という情報を“ 空気を読むこと” として捉えられない。
見えないモノ、コトへ想像力を働かせながら考え判断することができない。
結果として場に応じた言動をとることができない。
自分が発する言葉や振る舞いで人が不快に感じるかどうか想像力が働かない。

(5)発達障がいは治すものではない
 本人を変えようとしない(多数派の論理に近づけようとしてはいけない)。
少数派のままで生きていける環境を工夫する。
変わるべきは多数派の考え。
それができれば少数派も変わる。
なぜなら、人間は自らの力、個性を発揮できる環境が整っていればどんどん変わっていくから。(「合理的配慮」の根幹的考え方)

(6)「みんな同じ」という発想は不平等
 平等とは「その人らしく権利を追求できること」。
学びやすい環境、生きやすい環境づくりをしてスタートラインに立てるようにすること。(「合理的配慮」の根幹的考え方)

(7)伝え方の原則は結論から示す
 伝えることは1回に1つ。名言や数字の引用で効果が上がる場合もある。音の響き、リズムで感じることもある。視覚的にわかるものを示す。個の特性・傾向分析と個に応じた対策が必要。

(8)「友達がいない」はさほど問題ではない
「友達がいないことは悪いこと」と思い込むことのほうが問題。

(9)適応の目標は個に応じて
集団適応は「能力」のひとつではあるが、その人なりの、その場なりの適応の姿がある。集団適応の目標は一人ひとり異なり、場面、場面で異なる。できる部分で参加すればよい。
スモールステップ、多段階ステップの環境と学びが必要。
多数派に合わせるとか、みんなと同じにと考えてはいけない。

(10)信頼できる人とは?
 わかりやすい情報を提供してくれる人。目に見えない抽象概念を教え諭そうとするのは無駄な労力(学力、知的レベルとは別もの)。

(11)好かれなくていい。嫌われなければいい。
 人と付き合う術が身に付けば最高だが、むしろ、人と距離を置いて「嫌われない」ほうが大切。
苦手な環境では力を発揮できず、トラブルも起きやすいので不穏な雰囲気になったらその場から離すほうがよい。別メニュー、別空間を用意する。
一人で過ごせる場所(逃げ場所、居場所)を確保しておけば結構クールダウンできる。

(12)社会性と社交性と親和性

< 社会性>
ひどく嫌われない程度の付き合い方ができるスキル。
一人で過ごすのも立派な社会性スキル。

<社交性>
いろいろな人と楽しく円滑に付き合っていくことができるスキル。どんな人にもその能力差はある。

<親和性>
特定の人と関係を保つことができるスキル。親和性の相手は誰でもよく、相手が当事者をカバーできれば親和性は高まる。

(13)味方になる人の存在
「自己実現」や「人への信頼」の獲得は、支援なしで自然に身に付けることができないので、味方となる教師の存在は重要。

(14)当たり前のことをほめる
 同じことを何度もほめる。複数の人で同じことをほめる。そこそこのほめ方をする。1対1でほめる。ほめ逃げする(すれ違いざま、去り際、立ち話で印象や余韻を残すような感じ)。年齢に関係なく、目に見えたことに何でも「すごいね」「えらいね」「よくできたね」という言葉を添える。当事者のリアクションなどお構いなしで一方的にほめる。人づてに間接的にほめる。
誰かの評価(ほめる)によって、「自分は結構イケてる」「認めてくれた」「誰かの役に立っている」「がんばってみようかな」という自己有用感につながり、自己肯定感や自尊感情にもつながっていく。発達障がいの有無や年齢に関係ないことでもある。

(15)就労へつなげるために
 「がんばったらいいことがある生活」をイメージさせる。リズム、規律のある生活が「がんばる生活(時間)、くつろぐ生活(時間)」を生み出す。結果的に疲れない生活になる。
がんばる(がんばれる)時間・期間は人によって異なるのは当たり前。
リズム・規律のサイクルの徹底が必要→ 就労の基本

(16)捨てる勇気、欲張らない勇気
 卒業後に役立つ取り組みかどうか、教科・科目の学習、学校行事等、卒業後に使うことと使わないことの優先順位を付ける。できたかできないかがはっきり見極められる目標を設定する。
当たり前にできること、スモールステップを目標に設定する。支援者(わたし)の人生観の押しつけではなく、その子の人生という視点を忘れてはいけない。

(17)当事者以外の児童生徒も育てる
 当事者の問題として特別枠で考えるのではなく、クラスの問題、集団の問題として集団構成員一人ひとりとコミュニケーションを図りながら発達障がいへの理解を求める。児童生徒全員の前での一斉指導ではなく、個別に教師の価値観をぶれずに伝え、当事者を責めたり排除せず「認める」「支える」ための風土づくりをする。

(18)「共感する」ことは難しい
 本人も家族も100%受容できることなんてあり得ない。だから本人も家族も心が揺れる。それは極めて自然なこと。だから、第三者は「支える」という心持ちが必要。

(18)集団内での空白の時間をなくす
 授業でも行事でも、何かが終わったとき、次に何をするか決めておく。
空白、余白は集団を無法地帯にする危険性が潜んでいる。
授業が早く終わる、自習時間になっている等、児童生徒にとって無法地帯での過ごし方に理想モデルはないので、発達障がいがある子は揺れ惑う。
自律機能の低い集団なら一般の生徒もそうなるかもしれない。
終わった後の指示を明確にすれば個に応じた時間の過ごし方を生み出せる。

新年度も学生と共に学ぶ。