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#72 振り返りの日々

授業を終えたつど反省している。

40年間も教師をやっていると、“プロフェッショル仕事の流儀" をわきまえていると思われそうだが、
「教えるは “ 沼 ” 」である。

「わかってもらうは武器になる」とよく言われるが、私に武器なんてあるのだろうか。
ふとそんなことを考える。

いくつかの“キラーワード”は持っているつもりだが、いつでも誰にでも通用するわけではない。

ティーチャーは「ティーチングしたがり」で、これからの時代はそれではダメだと言われている。

ご縁をいただき、いろいろな高校で講演会や大学の模擬授業をさせてもらうことがある。

それが自分の在り方を捉え直す機会になっている。

キャリアデザインに関わる話で
「飯が食える大人にならなければいけないよね」
・・・・と言いながら、そう言っている私自身は果たして
「飯が食える大人としてやっているのか?」
「今もその志を持ち続けているのか?」
と自問自答している。

高校生向け講話 付録資料

経済的に「食うに困らない」という話ではない。

自分の中にしっかとした資源、資質、資本はあるかという問いかけである。

信念を持っている。

他人のせいにしない。

責任を取る覚悟がある。

仲間から信頼されている。

素直に「ありがとう」と言える。

「任せてください」という得意分野がある。

コミュニケーションを大切にしている。

聴く耳を持っている。

学び続ける姿勢をもっている。

自分の機嫌は自分でとれる。

意識的に時間を生み出している・・・・・

とにもかくにも、私たちは持てるいくつかの能力や技術を発揮して、組織や個人のお役に立ち、評価され、その対価をいただきながら
“ 飯が食えている ” わけである。

・・・・・と書きながら、自分の持っている能力や特質と照合したら、だんだん自信がなくなってくる。

人材、人財、人在、人罪
組織の人的材料から財産へ成長すること。

ただ存在しているだけではないこと。

「この組織・チームにこの人あり!」と評価されること。

他者に迷惑や面倒ばかりかけている罪つくりな人でないこと。

学生の場合、人から聞いた話やバイトで経験した「職業観」だけでは実社会で通用しないことがままある。

特定の業界や組織でしか通用しない言語体系があったりもする。

現場でしか学べないことがある。

初めて出会う「嫌なタイプの人」もいる。

様々な場面で多様性への理解や受容力が必要になる。

言葉や理解の仕方に発達の偏りや障がいがあれば配慮も必要になる。

「伝える」から「伝わる」を心がけたい。

言うは易し。
上手くいかなくて、そこらじゅうで行き違いが生じてトラブルが起きている。

私は講演会の場合、相手が大学生・高校生でも、教師でも同質・同内容の話をするが、言葉のチョイスは瞬間、瞬間で考え判断し、対象年齢に相応しい言語に変換している。

授業の場合は、思いきり難しい言葉を平気でポンポン投げつける。

常に、知らない世界の扉を開けて突き進むのが学問だからそれでいいと思っている。

「言霊」という言い方は、なんだかスピリチュアル(言語化できない霊感)ぽくなるので、できるだ具体的に話すよう心がけているが、確かに人が発する言葉には「内命」(心の内にあるもの)が宿っていると感じることはある。

まあ、それを言霊というのかな。

聞き手が若かったり未熟だと
「ワケのわからないことや難しい言葉を使う人だな」と思い、その瞬間、耳も心も閉ざしてしまうかもしれない。

ウンウンと頷きながら分かったふりをしているだけかもしれない。

私がそうだから。

文章を読む場合は別だ。

読んでいる過程で分からないことがあれば、文章を行きつ戻りつチェックして調べるなど、自分のペースで理解することができる。

しかし、口話はどんどん流れていく。

講演後に生徒から感想や意見をもらうようにしている。

「とても大切なことを分かりやすく話していただきました」
という感想がある一方で、
「○○という言葉の意味や概念が難しかったです」という感想もある。

どこまで言葉をかみ砕くかを考え出したら際限がなく脱線しそうだけれど、
「わかってもらうは武器になる」
の究極は、ていねいに誠実に話すことに尽きるのだと思う。

聞く側の立場で言えば、話し手が与える印象(声量、滑舌、抑揚、リズム、スピード、ことば選び、誠実さ、親近感、見た目の小綺麗さ)の影響は大きいと感じる。

ああ、来週からいよいよ後期が始まる。

無精髭を剃って、寝癖のない髪に整えて、シャキッとした格好で臨まなきゃ。