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あのとき、確かに僕は女性を差別していた。

差別や偏見は、社会の中で悪とされている。
だから、「それ、差別だよ」「それ、偏見だよ」と指摘されたとき、「誤解だ」「そんなつもりはなかった」と反論する人が多い。
悪者あつかいされるのは、誰だって避けたいもの。誰だって悪者になんてなりたくないから。

けれど、「差別や偏見は、もともと誰の中にもある」という前提が忘れ去られているような気がする。

「自分は誰のことも差別していない」とか「自分は誰に対しても偏見を持っていない」「日本の中には差別なんか無い」と思っている人は、差別や偏見の意味を誤解している可能性が高く、それはとても怖い状態だと思う。


何年か前に、レストランで知人の女性と何気なく会話していたとき、店内を走り回っている子どもがいた。
僕がふと「ああいう子どもって、しっかり母親がしつけてあげなきゃいけないよね」と言うと、知人の女性から、
「え? なんで母親だけなの? 子育ては父親と母親が平等に責任を持つべきでしょ?」と指摘された。

そのとおりだと思った。

「偏見」は、「ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしに非好意的な先入観を持つこと」を意味する。
そして「差別」とは、偏見によって「他よりも不当に低く取り扱うこと」を指す。

あの瞬間まで、確かに僕は「子どものしつけは母親に責任がある」という偏見を持っていた。
あのとき、確かに僕は女性を差別していた。

社会にはいろんな人が暮らしている。
自分と違う境遇で、自分と違う価値観を持った人が共存し、自分の知らない世界がこの社会には無数に存在している。
だから、誰の中にも差別や偏見があって当然だと思う。

差別や偏見は、人間の心の奥の方、自分自身ですら気づかない裏側に潜んでいる。
そうして誰かに指摘され、他者に言語化してもらう機会でもない限り、自覚を持つのは難しい。

僕は、差別や偏見を持っていること自体が悪いわけではないと思っている。
ただそれに、できるだけ早く気づき、反省し、考えを改めれば良い。
だから、あのとき指摘してくれた知人には、今とても感謝している。


性別、国籍、身体的特徴、セクシュアリティ……近年、様々な差別がニュースになるたびに「差別する意図は無かった」という謝罪が常套句になりつつある。
僕はそれを、とても恐ろしいことだと思う。

僕は、あのときの自分に「差別する意図は無かった」なんて言い訳はしない。
あのとき、僕には確かに女性を差別する意図があった。
だって、本当に差別する意図が無かったのなら、そもそも「ああいう子どもって、しっかり母親がしつけてあげなきゃいけないよね」なんて言わないし、考えもつかないはずだから。

「差別する意図は無かった」という常套句で済まされてしまえば、自分のそれまでの言動が差別であると自覚できなくなってしまう。
自覚や反省ができないまま、あらゆる差別が正当化されてしまう。
そんな世界になってしまうことが、僕は何より恐ろしい。

「自分が誰かを差別している」と自覚するには、とても勇気がいる。
自分が悪者だと認めることになってしまうから。
けれど、差別や偏見は誰の中にもある。ただ、次の瞬間から考えを改めればいい。
「ごめんなさい。僕は今この瞬間まで、女性を差別していました。今日から考えを改めます」
それで良い。

だからどうか「差別する意図は無かった」なんて言い訳で、目を背けないでほしい。
あなたの中にも、差別や偏見はある。
僕の中にだって、きっとまだたくさんの差別や偏見がある。
それを、ひとつずつ見つけては、反省し、改めたい。

そうすれば、きっと今よりも世界は優しくなれるはずだから。


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