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時空を超えて届くもの。

鉛筆の芯が丸くなってしまうのがもどかしい。
こんなにも言葉が溢れて、頭の内側を早く早く紙の上にのせてしまいたいのに。指でぬぐって掻き出し終えたら、もう夜に囲まれていた。

文章を書くことが好きな人は、
そんな経験があるのではないだろうか。
夢中で集中してすごくノッてくると、
いつのまにか夜になっていた、とか。
人によっては「気づくと朝に」
なっていたりするかもしれない。
そして過度に集中していると
目には見えない「何か」が
わかってしまうことがある。
あなたにもあるだろうか。


あの時私は小説を書いていた。
社会人になって二年目の夏。
私は少しでも時間があればこまめに書く、
ということが出来なくて、
環境を整えて集中して
一気に書きたいタイプだった。
その日も紙と鉛筆というオールドスタイルで
ひたすら文章を書き続けていた。
集中したら、周りの音は聞こえない。
ただ頭の中のものが見えるだけだ。

山登りをするのが好きな男の人が
登場する話を書いていた。
それにはモデルとなる人物がいて、
しばらく会っていなかった
大学時代のバイト先の先輩だった。

私よりも年上の彼は、
定職にはつかずに
フリーターというものをしながら
登山家として活動していた。
日本のみならず、
海外の山にも積極的に登りに行っていた。
メキシコの山に登るのに、
スペイン語をたいして話せもしないのに
行ってしまう。
現地で知り合ったガイドと親しくなり、
そのガイドの家に泊めてもらったり
していたという。

「そのガイドの家に行ったら、
彼が奥さんと喧嘩を始めちゃってさ。
言葉はわからないんだけれど、
なんとなく雰囲気で伝わるんだよ。
『何処の馬の骨ともわからない
日本人の男なんか、どうして連れてきた?』
って、奥さんが怒ってるんだよね。」
と言って、彼は遠い目をして笑った。
その時彼の心には
喧嘩の有り様が浮かんでいたのだろう。
そして
オアハカという街で買ったお土産だよ、
と言って
素朴な木彫りの櫛をポケットから出した。
私の知らない遠い街の
陽に灼けた肌をした人が
櫛を作っているところを想像した。
太陽と風の匂いがしてくる櫛だった。

冬山に登る前の彼は
厳冬の夜、
自宅の吹きさらしのベランダで
寝袋にくるまって寝た。
幾晩もそうやって眠り、
寒さに体を慣らすのだと言った。
よくそこまでストイックな暮らしが出来るね
と言うと、
「だって山に登りたいんだもの。」
と、わかりやすく答えた。
呑みの席で誰かが
「そんなに山が好きなら、
山で死んでも本望だね。」
と言ったらば彼は
「いや。俺は帰ってきたい。
山で死んだら本望って
言う人もいるだろうけれど、
俺は『また生きて帰って来た!』って
思いたいんだ。
そのために山に登るのかなあ。」
自分でもよくわからないけれど、
なんて、酔っ払いながら言った。


私は大学を卒業しバイトを辞め
登山家と会うこともなくなった。
何度か呑み会があったけれど、
彼は登山中ということで会には来なかったり、
私が仕事で行けなかったりした。
一度、
タイヤが左右で微妙に違う車で
ドライブに行ったことがあるけれど、
それっきりだった。

私が書いていた小説に
その登山家を登場させたのは、
偶然だった。
主人公というわけではない。
小説を書くことに没頭していた私のあたまの中に、彼は
ぽつん、と現れた。
だから、ちょっと登場させたにすぎない。
小説の中での登山家についての記述は
こうだった。
『その人は異国の山で遭難して死んだ』

ひどい話だ。
勝手に殺すなと、叱られるだろう。
いや、彼なら呆れて笑いだすかもしれない。
鷹揚で動じない、
どんな物事もすんなり受け入れる
度量の大きさがあったから、
私もこんなことを書けたのだと思う。
本当になにげなかった。
気がついたら書いていた。

 
それからほどなくして
当時のバイト仲間から久しぶりの電話があった。
「あの人、死んだんだよ。」
登山家の死の知らせだった。


冬の八ヶ岳に登りに行った。
八ヶ岳は彼にとって、
慣れ親しんだ山だった。
海外の山へ行く前に、
慣らしとして登ることもあると聞いていた。
あまりにも慣れすぎていたのか、
入山証を出さずに登ったらしい。
入山証がなかったためにルートが掴めず、
捜索は難航した。
結局捜索は断念され、
夏になって雪が溶けた時、
遺体が発見されたのだった。

その友人は、
遺体が見つかったということで
ようやくお葬式をやれることになったと、
日時を教えてくれた。
「でもさ、あの人本当に山が好きだったから
山で亡くなったことは、
ある意味本望だったのかもね。」

違うよ。

私はそう言えなかった。
怖くて言えなかった。
山で死ぬのが本望なんかじゃなくて、
本当は帰ってきたかったのだと、
言うのが怖くてたまらなかった。
冷たい雪に埋まって
暖かい布団のことを考えただろうか。
暑い夏のことを思っただろうか。
家族の顔を思い浮かべただろうか。
彼の絶望が
目の前に晒される気がして、
私のこころは悲鳴をあげた。

あんなことを書かなければよかった。
いや、私があの文章を書いた時には
彼はもう死んでいたのだ。
ただ何かが
ここまで届いた。
そういうことだった。

書くことに限らない。
スポーツ選手の『ゾーン』と言われる現象
も、同じことだと思う。
過度に集中した時に
人智を超えた何かを
見たり聞いたり知ったりする。
それは太古から
人間、というか生き物に
備わっている感覚のひとつなのだろうか。


私は彼のお葬式には
行かなかった。
それが正しかったのかは
今もわからない。
オアハカの櫛は、
見るのが辛くてしまいこんだ。
あの時書いていた小説は
断念した。


それから十年以上経って
ようやく
「どうか登山者の
守り神になってあげてね。」
と思えるようになった。
世界のどこかで
誰かが登頂に成功したニュースを見ると、
ああ彼が
もうひとりのシェルパになって
支えてあげたのかな、
と思うと気持ちが和みさえする。
あの小説の続きを
書こうとは思わないけれど、
彼の永遠の登山が終わらない以上は、
私もあれは書かなくてもいいのだ
と納得出来るのだ。




文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。