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他人にどう見られるかより、自分がどう感じるか



最近の日記を書こう。


昨日は映画「耳をすませば」を見て
号泣していた私。

テレビ欄に耳をすませばの文字を見つけて、
急いでチャンネルを変えたのだった。

でも、最初に目に飛び込んできたのは
松坂桃李。

あれ、チャンネル間違えたかな?と思ったら、
実写版の方だった。

アーーー、そういうことか。

私はジブリの作品のなかで、
耳をすませばがとにかく一番好きだ。

あの甘酸っぱい青春物語が最高に好きだし、
作品の中の街並みや世界観に
なぜかものすごい郷愁を覚えるのだ。

あの坂道や図書館、中学校、飛行船。
猫に導かれて入った素敵なお店。おじいさん。

全てが私の憧れだった。

あまりに甘酸っぱくて、素晴らしすぎて、
何故この世界の中に入れないのだろう、
と辛くなってしまうほどだった。


わたしはそもそも、
映画というものがあまり好きではない。

それというのも、上記のようなことが
よく起きるからなのだ。

たぶん、私の感受性が高すぎるがゆえに、
目に飛び込んでくる情報量が多すぎる映画は
あまりに多くの感情を抱えることになってしまい
心のキャパシティを超えてしまうのだと思う。

つまり、良い映画ほど見終わった後に
辛くなってしまうのだ。

高校生のときにハリーポッターの最終章を
映画館で見たあとなんか、あまりの放心状態で
学校になんかとても行く気分にはなれなかった。

何故わたしがマグルの学校に?
と思っていたのだ。(入り込みすぎ)


とにかく、世界観が良すぎると、
良すぎるが故に入り込んでしまって辛くなる。

だから映画が苦手だ。


好きだけど見たくない、見たいけど怖い、
みたいな気持ち。

このことに共感してくれる人には、
あまり出会ったことがない。笑

まあとにかく
映画にそんな苦手意識を持つ私なのだが、
やはり好きな映画は、あるにはあるのだ。

良すぎて怖いけど、でもまた見たい!みたいな。
怖いもの見たさ?のような感情。


で、金曜ロードショーでならば
映画を見れるのだ。

なぜなら、リアルタイムで一緒に見ている人が
全国にたくさんいるから。

辛いのはわたしだけじゃない!って思えるから。
(みんなは辛くなんかなってないんだろうけど)


だからさっき一瞬にして覚悟して
耳をすませばを久々に見よう!と思ったのに、
蓋を開けてみたら実写の方だった。

げーーっ、と思った。

耳をすませばに関して、
新しく情報を入れたくない。
あの素晴らしい世界観を実写になんかできるのか?

でも、うとうとしていたわたしは
ソファに寝っ転がりながら
嫌々それを見ることにした。
(というかチャンネルを変える気力もなかった)


で、結論から言うと、
最終的にめちゃくちゃ号泣していた。

いやいやあの映画には勝てないっしょー、
と思っていたのだが、
思いのほかめちゃくちゃよかった。

最後には清野菜名がマジで月島雫に見えていたし、
松坂桃李は完全にあの天沢聖司だった。

いやー、わたしってちょろいな。笑

ほんとうに、いざ見てみたら面白かったのだ。
感動した。素晴らしかった。(情緒よ)

10年も遠距離だった二人が
ずっとお互いを思い合っているってさあ、
本当に素晴らしいよね。

あーー、最高だな。
やっぱり耳をすませば最高。

なんというか、こういうふうに
強制的に新しい物語を摂取するのも
大切なことだな、と思う。

世の中には、わたしが知らないだけで
他にも素晴らしい物語がたくさんあるはずだ。

でも、たくさん映像として摂取してしまうと
素晴らしいものほど辛くなるから、
だからこそわたしは本の方が合っている、
とよく思う。


本なら自分の想像の中だけで完結させられる。

その方が辛くならずに済む。

楽しくその世界に没頭していられる。


・・・



そしてそんな今日は、母の誕生日。

なんと昨日は父の誕生日で、
しかも明日が母の日ときてる。

この週末、うちの家族は忙しい。笑

とりあえず、
今日の夜滑り込みでシャトレーゼへ行き、
母の日っぽいケーキに
「happy birthday パパ ママ」
というプレートをつけてもらった。笑

完璧だ。

これで3つのお祝い事を
一気に済ませることができる。笑

母の日、かつ父母のお誕生日ケーキ


我ながらいい感じのプレゼント。

父と母は、喜んでケーキを食べていた。
よかった。

この滑り込みケーキを
そんなに喜んでくれるなんて。笑
買ってきた甲斐がある。

母なんか大喜びして、
ねえいつケーキ食べる???
と3秒に1回くらい聞いてきて面白かった。

父は、
「いやあシャトレーゼって
やっぱり分かってるよねえ〜、
だって男って甘い物をたくさん食べたくても、
出された量がそもそも少なかったら
それで十分です、
みたいな顔しなくちゃいけないじゃん、
女の子ならもっと甘いものたくさん食べたい!
って言えるけどさあ、男はプライドがあるから
そういうことなかなか言えないんだよ、
でもこのケーキは相当甘いし大きいから
男も大満足できるよ、やっぱ分かってるわ、
だから人気なんだねえ」と力説していた。笑
(つまりかなり喜んでいた)

素直に喜ぶ母と、
素直ではないが喜んでいることが丸わかりの父と、
犬と、みんなでワイワイしながらケーキを食べて
なんだかものすごく楽しかった。


よくわからないけれど、
こういう日常こそが一番の幸せで、
大切な瞬間なんだよな、と思った。


snsを見ていると忘れがちだけど、
他人のことも社会のことも、
本当はどうでもいいことなんだ。

大切な人と、
大切な時間を笑い合って過ごせること。

これ以上に幸せなことはこの世の中にはなくて、
こういう本物の幸せって実は地味なんだ。


爆発的な大きな喜びは
人生に麻薬のような快楽を与えてくれるけれど、
それは一瞬にして消えて無くなる。

そして大きな喜びほど麻薬のように中毒性が高く、
もっともっと、もっと大きな喜びが欲しい、
もっと人よりも良い暮らしがしたい、
もっと他人よりも上に行きたい、
と最終的に自分自身を食い尽くしてしまう。

何と争っているのだろう。


一度大きな幸せを味わってしまえば
気をつけないとその中毒から逃れられなくなるし、
目の前には幸せがゴロゴロと転がっているのに、
他人からどう見られるかを気にしてばかりいると
そのことに気づけないのだ。


わたしは、そういう生き方よりも、
小さな幸せに目を向けながら人生を送りたい。

家族と笑い合えることや
友人や恋人と一緒にいられること、
一緒に働く仲間がいて
自分の仕事で誰かの役に立てること、

それ以前に、
朝起きてみたら天気が良かったとか、
部屋が綺麗だとか、
道端で綺麗な花が咲いているのを発見したとか、
やるべきことをやったあとに
のんびりと本を読む時間があるとか、
そういうのも全部。


そういうことの全てが私の人生における幸せで、
それよりも大きな喜び、例えば地位や名声、
他人からの評価などという類のものは
私の人生には必要ない。

なぜならわたしは、
自分で自分のことを幸せにできるから。

他人からどう思われるかを
幸せの指標にしていないから。


どんなに小さな幸せにも
反応するセンサーを持つこと。

大きな幸せにしか反応しないセンサーは
いっそのこと捨てること。

それが、わたしの思う
幸せに生きる、ということだ。



・・なんか、何の話なんだろう?笑

耳をすませばと、父母のケーキの話をしていたら
結局幸せのことを考えていて
このnoteは終わってしまった。反省。

でも、こういう日が結局一番思い出に残る、
とも思う。

今のありのままの感情を
気軽に残すことができる場(note)があることに
感謝します。

またnote書こうっと!


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