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Mirror, mirror

醜形恐怖症、についてご存知だろうか。

これは、「実際には存在しない外見上の欠点やささいな外見上の欠点にとらわれることで、多大な苦痛が生じたり、日常生活に支障をきたしたり」する病気のことだ。(醜形恐怖症-10.心の健康問題|MSDマニュアル家庭版より)

コンプレックスが尽きずちょっとでも見た目を良くしたいなんて思春期あるあるだね、と言ってしまえばそれでおしまいかもしれないけれど、傍目から見ればあまりにも些細なことを気にして苦しむ人がいる、ということは知っていてほしいと思う。

できればひとりでも多くの人に。


高校生の頃、わたしは過剰なまでに自分の外見を気にしていた。
誰かにブスとか言われたことなんて一度もないし、何ならあまりにも人間関係に恵まれた人生を送っているわたしの周囲の人は皆、お世辞にもいわゆる黄金比的な美人とは程遠いわたしに対しても、かわいい、綺麗と so sweet な言葉たちを惜しみなく向けてくれた。

それなのになぜ、醜形恐怖症気味、になってしまったんだろう。

正直わからない。

きっかけはわからないけれど、とにかく気づいたらそうなっていて、
毎日鏡を見ては美しくないと絶望し、
少しでもマシになろうと鏡に向き合ったとて顔の造形は変わらないという当たり前の事実に絶望し、
鏡なんて見なきゃいいのに、電車の窓やショーウィンドウや、果ては道行く車のミラーまで、光を反射するもの全てにわずかに映りこむ自分の姿を確認しては絶望した。

取り憑かれたように黄金比的美の基準を追究し、整形に関する数多の記事を読み漁った。「理想的な」顔になるためにどこの骨を削りどこに糸を入れればいいか、いまだに言える。

顔を変えるのは容易ではないと悟り(そりゃそうだ)、ならばせめてと「雰囲気美人になる方法」みたいなものをググりまくって、背筋を伸ばし膝を揃え、指先まで美しく見えるよう神経を張り巡らせた。

まあそんな完璧主義ではないし、思い出したときだけだけど。

でも、どんなに動きに気をつかったとて、なれるのは所詮「雰囲気美人」。
姿勢良いわたしいいじゃん〜のメンタルと、どうせ気休めだという劣等感とを高速反復横跳びしていたのが当時のわたしだ。


そんなこんなで誰のせいでもなく勝手に不幸な高校生活を送っていたわたしだが、大学生になってしばらく経って、いつの間にかあんなにも自分を苦しめていた強迫観念がほとんどなくなっていることに気がついた。

これも理由はわからない。

自由にメイクしはじめたこと、女子校を出て人並みに恋愛したこと、あるいはコロナ禍においては奇跡のような多様な人間関係に恵まれたこと、おそらくはその全部。

理由はどうあれ、とにかく今のわたしは必要以上に鏡を確認することもなくそこそこハッピーに過ごしている。
ありがとう世界。

そしてこれは余談だが、わたしは当時から今に至るまで、自分以外の人がもれなく可愛く美しいと割と本気で思っている。
自分の外見上の欠点を洗い出すのと同じくらい、他人の魅力を見つけ出すのも得意なのだ。
なんでその魅力発見スキルが自分に適用されないの〜と母は嘆くしわたしも本当にそう思う。不思議。

ともあれこれはわたしの長所のひとつだし、ついでに言うとかつて身につけた雰囲気美人スキルたちもわたしの財産だ。

悪いことばかりじゃない。


ただ、後遺症は残っている。

ごくごくたまに、あからさまな美醜の価値づけに触れたとき、あの頃のわたしが顔を出す。

ブスとか可愛いとか、〇〇の方が綺麗とか、そういう言葉が行き交うことは往々にしてある。
その場ではニコニコしていても、一夜明けたくらいから当時の感覚をそこはかとなく思い出し急に気持ちが沈みこむ。
自分を大切にしてくれる大好きなひとたちと会うことすら億劫になってしまうのだから困ったものだ。

当時のわたしによく似たひとに出会うこともある。
周りが何を言っても届かないことはわかりきっていて、とてもくるしい。

ただただそのひとが、自分を追い詰めてしまわないことを祈るだけ。

心理学の専門家でもなんでもないわたしにできることは少ないけれど、あの苦しみを抱えるすべてのひとに取り憑く呪いが一刻も早く去ることを、心の底から願っている。


こんな長い文章を読んでくださってほんとうにありがとうございます。
あなたの日々がやさしく穏やかなものでありますように。





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