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# 54 悩める人間

時間、空間をアプリオリ(注)と捉えるカント哲学の立ち位置がある。しかし時間や空間が果たしてそうなのだろうか。哲学は分かりにくいのだが、その辺を考えてみる。
漸進法で進める。

1。カントは空間、時間をアプリオリとしている。
2。空間と時間は哲学と言うより物理学の優先事項ではないだろうか。現在では空間も時間も歪むという。宇宙のマクロな科学はそのように思考している。一方で、ごく微細な量子力学の世界では、果たして時間が存在するのかも定かではないようだ。哲学が認識論を守備範囲とするのなら、時空の認識は欠かせない。新たなる哲学を待ち望む、そんな曲がり角かも知れない。
3。時間の問題は何も物理学を持ち出す必要もなさそうだ。楽しく、リラックスする時間は早く進む。日曜日の楽しい時間はあっという間だ。サザエさんシンドロムと言うが、日曜日の放送時刻になると、明日からのことが過ぎって気分は落ち込んでしまう。仕事は忙しないし、時間はなかなか進まない。そんな月曜日は重苦しい。
5。労働は尊いとか、生涯現役とかは私の時代では常識だった。そんな昭和な気持ちは大切にすべきではないだろうか!しかし、サザエさんになってしまうのも事実だ。これは個人に問題があるとも言えるのだが、社会にも責任があるはずだ。楽しく仕事ができる環境づくり、そんな工夫が欠如していることの裏返しがサザエさんシンドロムなのだ。
6。さてさて、またしても構造主義が顔を出した。
構造主義とは、人間の思考や人間社会が、目に見えない何か(=構造)によって決められているという考え方である。これは何事も社会のせいにする話と隣接するので、気をつけている。
7。抽象的な概念から還元して、目まぐるしく変わる現状を考えてゆくべきだろう。
構造主義を抽象化してみると、『人間がものごとを考える時に、その「何か」を単独で見るのではなく、「別の何か」との関連性の中に意味を見出すと考える』と言うのが肝で、それを知ってから気をつける気をつけないの話をすべきなのだろう。
カントは
純粋理性批判 ⇒ 人間は何を知ることができるか
実践理性批判 ⇒ 人間は何をすべきか
判断力批判  ⇒ 人間は何を望んでいるか
を言及したそうだ。
純粋理性批判は認識論であり、時空をニュートン力学に設定して、アプリオリなものと捉えていた。
実践理性批判は認識論の外の世界であり、道徳とか、神とか、まさに日常我々が基本としている軸となる行動の理念である。
判断力批判は美の世界の共通した共感、感動に関わる主観である。皆が認める普遍的な主観があると述べている。ミロのヴィーナスを究極の美と称える人は多いし、今後、それは何千年経っても変わらないだろう。
さて、今回のサザエさんを考えると、時間という認識論と、構造主義といういかに生きるべきかという話が混ざり合っている。混沌状態だ。
7。しかし、これを混沌と捉えるべきだではないのでは。カントや構造主義者の視点から離れて見てみたい。
元々、労働には価値があるわけではない。価値のないことに月曜日は向かい合わなくてはならないだけの話なのだ。抽象論からそこを眺めるとバートランドラッセルに到達する。
彼はそもそも労働に対する我々の態度は非合理的である。労働自体を良いこと思い込んでいるし、さまざまな労働に異なる価値観を与えている。そうした態度は不幸への道筋だ。我々は労働がどれほどの価値を有するのか認識して、それ以上働くべきではない。労働時間を減らせば幸福度は上がる。言うならば、労働時間を短縮すれば、創造的な関心事を追求する自由が生まれる。無意に生きることも優れた点が多々あるのだ。
AIの労働市場への参入や働き方改革など考えると、社会は何かしら、ラッセルの方向に向かっている様に見えてくる。
8。社会が複雑に高速で推移している。これは益々、顕著になる。そんな中で、美意識も、生活感も、認識論も、変わる。個人のレベルに戻すと自分という現象が外界の現象とのシナジー効果であいみ互いに進化している様にも思える。
私は元々、抽象論を得意としていない。しかし、自分の周りを見渡すと、抽象論の立場になり、そもそも論に身を置かないと、知らず知らずに自分を見失いそうになる。

全てが混乱しています。カオスでしょう。曲がり角なのです。


注:哲学における一般的用法としては、アプリオリは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われる。



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