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#115:ぼんぼんFIRE

まだ少しFIREについて書き足りないようだ。
(前回、以下の記事で長文を書いたのだが…)

テーマである”Financial Independence”、つまり経済的自立は多くの人を惹きつけるようだ。

改めてnote内で検索しても多くの記事が見つかるし、どうすればFIREできるかを様々な角度で書いている記事、実践している体験談が多い。

もちろん自立後の計画や実体験を取り扱っているものもある。ただ多くはFIREのうち、FI部分にフォーカスしたゴール設定が多い。どのような方法やレベルでFIするか、それは現実的か、など。(少し決めつけだが)とにかく経済的自立を果たしたら勝ち、というような価値判断。

でも果たして、本当にそうなのだろうか。

経済的自立とは

一般的には2つ解釈があると思う。

ひとつは、親や扶養者から独立して自らの稼ぎで生計を立てること。昔からの一般的な解釈。

もうひとつは、FIREの文脈での経済的自立で、自らの金融資産や不労所得で(長期に渡って)生計が立てられることを言う。早期退職し労働による所得がなくても、資産の運用益や何かの不労所得で生活費を賄える状態を自立と呼ぶ。

今後の日本経済や国の制度に対して期待できない国民感情や、昨今の自己責任論を反映して、この少々厳し目の経済的自立の定義は成立しているような気がする。自立というより経済的な自己完結を示している。自己完結するからこそ、経済的に周囲との接点を最低限にできる(だからこそ働かなくて良い)ということだ。

ぼんぼんはFIREしない

ところで、関西では金持ちの息子をぼんぼんと呼ぶ。(娘はお嬢ちゃんなので普通の呼び方。この後、呼びやすいのでぼんぼんとするが、内容としてはぼんぼんもお嬢ちゃんも包含する)

ある程度の資産家の子息であれば、親からの資産を相続すると、その時点でFIRE達成である。生まれながらその達成条件は見えており、特に戦略や工夫はいらない。親と大きないざこざがなければ、ある程度、高い確率で達成できる。

たまたま、学生時代にぼんぼん達と知り合う機会に恵まれていた。(こちらはnotぼんぼん)

彼らは生まれながらにFIRE条件はクリアしていた。もちろん親が生きてるうちに相続は発生しないので親から独立はするが、それより一歩踏み込んだFIREな経済的自立は必要ないはずだ。

若いうちは少し困った(わがままな)ぼんぼんも居たが、社会人になる頃にはほぼ気の良い付き合いやすい人間となっていた。いわゆる放蕩息子と呼ばれる自ら働きもせず、親の金を湯水のように使い倒す、そんなタイプのぼんぼんは(あくまで体感だが)あまり見たことがない。

そしてこれも自分の周辺の狭いサンプルによるが、しっかりと働くぼんぼんをよく目にする。(なお服や車、家はランクが違ったりする)

職種は様々だし、家業の有無やそこで働くか否か等で労働条件は異なるが、ただひとつ言えるのはアーリーリタイアした(もしくは働かず悠々自適)という話は全く聞いたことがない。

いつでもFIREできる条件が揃っているにも関わらず、(私の周りでは)なぜかぼんぼんはFIREしない(厳密にはREしない)のである。

資本の種類とぼんぼんの働く理由

突然だが、人が幸福になるには、3つの資産・資本が必要のようだ。(本の受け売り↓)

詳しくは読んでもらうと良いが(とても本質的で説明が分かりやすい)、ひとつは金融資産、そしてあと2つは人的資本と社会資本である。

主にFIREは金融資産を対象とする。それ以外の人的資本は自らの労働力のことで、社会資本は人とのつながり(コミュニティ力)である。

話を戻すと、ぼんぼんは生まれた時から金融資産には恵まれている。幸福が金融資産によってほぼ賄えるのであれば、恐らくぼんぼんに働く意味はない。しかし、3つの資本のバランスが必要になるため、(恐らく無意識に)金融資産以外の資本を求めて働くのではないかと思う。

ぼんぼんのアドバンテージ

ただ既に金融資産を持っているぼんぼんには、あくせく働くといった感じはない。彼らの多くは鷹揚であり、ひと当たりが良いので周りから好かれることが多い。若い頃は自分と比較し、持つ者と持たざる者の差は歴然だなーと感じていた。(羨望というより事実認識として)

彼らは彼らの持っているもの(金融資産)の価値や限界について、自ら経験的に学ぶか、親からの教育により知っている節がある。学生時代には思春期で自己が確立しないまま、自らの家の資産と自分を同一視して横柄な態度のぼんぼんも居た。しかし、その思春期の軋轢を越えると金融資産に対する過信は取り払われている。

金融資産を持っているだけでなく、それを過大評価も過小評価もしない。ある意味、金融資産そのものより強力なアドバンテージかもしれない。シンプルに言うとお金に囚われていない。

人生というゲーム(ぼんぼんのゲーム感)

私は、ぼんぼん達のことが割と好きだ。

彼らのことをいくら羨んでも生まれた環境は変えられないので、彼らと自分の境遇を比較するのは全く無意味だ。またぼんぼんなりの苦悩を取り上げて溜飲を下げる(実は平等だと装う)ことも侘しい。それなりに悩みはあるだろうが本人でもないし、どうせ比較などできない。

金融資産としては、ぼんぼんのロケットスタートに庶民は追いつけない。それだけが客観的な事実だ。そこに平等も相殺できる事実もない。

そのスタート地点から、FIREを目指して走り出すとぼんぼんに対しては周回遅れの感がある。

人生は3つの資本の総量を競うゲームではない。しかし金融資産を満たしてから他の資本の欠落に気付いたり、もしくは金融資産のために他の資本を削ったりは本末転倒かもしれない。

人生をどういうゲームにするかはもちろん当人次第である。ただどういうゲームにするかは、なかなか悩ましい問題である。FIREを目指す、というゲームもなかなか張りのある生き方かもしれない。なので、盛り上がっているのだろうし、記事やテーマとしても読んでいて面白い。

お金の総量を競うゲームには最初から参加していない、スタート地点からして違うぼんぼん達と接することにより、私は少し違うゲーム感を得たかもしれない。それは今となっては貴重な体感だと思う。

長文を読んでいただきありがとうございます。

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