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#238:手応えと努力に逃げない

昨日読んだ2つのnote記事を絡めて、少し考えたことを記録する。


「手応え」の話

ひとつ目はやひろさんの記事。

いつも斬新な切り口のテーマをシンプルで分かりやすい文章で書いているやひろさんの記事だが、こちらもヒトは単純に「手応え」を求めているという結論は大きく頷きながら読んだ。

その例である自動消毒器やゲームも分かりやすく、特にゲームは自身の体験に照らしても、ほぼゲームで発せられる「特定の音」を手応えとして得るためだけにやっていた、と気付いた。

ちなみに「特定の音」とは、ゼルダの伝説というゲームの中でコログという妖精を見つけた時の音であったり祠をクリアした後の音だったりする。

(が、ゲームをやらない人には全く意味不明だと思う…)そう、意味不明なゲーム音に左右されて何時間もゲームを続けている。そう引いて見ると人気ゲームの報酬設計(手応え管理)にどっぷりハマっている自分に気付く。

ゲームに限らず、仕事においても「手応え」を求めるという話にも強く共感した。自分自身も直接的な手応えを仕事の中で得にくい状態もあって、その渇望は案外バカにできない欲求であることに気付いた。

「努力に逃げない」の話

一方で、山口周さんの記事。

山口周さんは著作も多数で、動画で話している姿も容易に検索可能なので説明を割愛するのだが、だいたい出版された本は読んでると思う。

この記事では直接「手応え」に関する話ではないものの、『私たちは「わかりやすい努力」に逃げて安心したがる、という悪い性壁を持っています』という指摘がある。

この「わかりやすい努力」というのは、ある意味そのまま「手応え」のある仕事や努力に置き換え可能な表現だと思う。そして、このように続く。

とにかくジッとしていると不安でしょうがない。だから、とにかく「わかりやすい努力」を一生懸命にやって、それで「努力しているつもり」になって安心しようとするわけですが、ではこのような「わかりやすい努力」の末に、大きな成果が待っているのでしょうか。

この内容には、正直ドキッとさせられた。

手応えを求めてわかりやすい努力に流れようとする、そんな自分にいくつも思い当たる節がある。

そして、以下のように更に鋭く指摘される。

一方で、私たちの社会に目を転じてみれば、考えることを放棄して、ただひたすらに「速い、安い、うまい」を目指して疲弊している組織や個人の何と多いことか。つまり「仕事に逃げるな」ということです。

この指摘もその通りのような気がする。

でも手応えは欲しい

と言いつつも、手応えが欲しいのも否めない。

山口周さんの言う通り、戦略的にどこで闘うかは意識的になった方が良いものの、自分が手応えを感じるところを目指すのも悪くないとも思う。

それは何も仕事だけで解決しなくてもよくて、バランスを取るために、手応えのある仕事以外の活動をするのでもいいのかもと思った。

仕事は複雑系やら、抽象度の高いものを扱うのでどうしても手応えは得にくい。それに対して、例えば農業ボランティアで草刈りや収穫の手伝いをすると明確な手応えがあり癒される。

今は何とかそれでバランスを取ろうとしてるが、本音ではシンプルな仕事と手応えがあればそれが一番望むものかもしれない。

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