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【子ども達の3.11】 Vol.05 三浦七海(宮城県名取市閖上) 「語る」ことの持つ力


「津波だー!」
体育館に響き渡った声。
何が起きたのか訳もわからずに、人の走る流れのままに走った。

小学5年生だった私は、家族4人で宮城県名取市閖上地区に住んでいました。
いつも通りに家を出て、寄り道しながら学校へ行く。
いつも通りに授業はちょっと退屈で、
晴々とした空を見ながら、「こら!よそ見をするな」と怒られる。
そんな“いつも通り”は、ゴゴゴーと大きな地鳴りと共に、壊されていきました。

あの地震は、まるで子どもがドールハウスを思いっきり揺さぶったような揺れで、
今までにない恐怖を感じました。

揺れが収まり、校舎の3階廊下へ避難。
すでに帰っていた生徒も、先生たちが学校へ呼び戻していた。
繰り返される余震や先生たちの尋常じゃない雰囲気に怯えながら、
私は廊下に友達と座り込み大泣きするしかなかった。
母が海の近くにある自宅から車で駆けつけて来た。
でも、3年生の弟がどこにいるかは分からない。

「弟を探してくるから。もしいたら、姉弟一緒にいなさいね!」
と声をかけられ、母は来た道を走っていった。

その後も学校には地域の人が避難しにきたり、子どもを迎えにきた親たちで溢れた。
そんな中、怒号やラジオの声の中から聞こえて来たのは“津波”というワード。
もちろん教科書では習ったし、学校で避難訓練もやったことがある。
でも実際に来るなんてことは想像できなかった。
すし詰め状態の中、先生たちもどこに誰がいるかは把握しきれてない様子。
「早く子どもを帰してください!」
「津波は来るんですか!」
「私の子どもはどこにいるんですか!」
「津波の来る警報がでているので帰せません!」
「確認中なので待ってください!」
大人たちの大きな声が、学校中に響き渡っていて、耳を塞ぎたかった。

しばらくすると
「みなさん体育館に移動してください!」
と指示があり、みんなで一斉に歩き出す。
あのとき、通り過ぎた教室の机の下に弟がいたことは、
混乱の中でかき消されてしまった。
すでに地震発生から1時間以上が経っていた。
途中の渡り廊下で母が学校に着き、私の後ろからも弟がついて来ていて、
無事だったと少し安心した。

みんな学年ごとに並んでいて、私もその場で座りかけた瞬間
「津波だー!」
体育館に響き渡った声。
何が起きたのか訳もわからずに、人の走る流れのままに走った。
屋上へ出ると、校庭に黒い濁流が流れて来ていた。
ぐしゃぐしゃになった何かの残骸、車、船、家、人が流れていた。
寒くて雪も降る中、まるで映画のような光景に、私は怖さも感じられず、茫然とする。
見てはいけないものなのか、目に焼き付けて覚えた方がいいのか。
津波という言葉の意味は理解するも、ことが大きすぎて訳が分からなかった。
大人は泣き叫び、子どもはその様子に怯えて泣く子か、私と同じような子がいた。

津波の勢いが収まり、校舎の3階の教室で一晩を過ごすことになった。
カーテンを外し、段ボールや新聞紙を敷き、ゴミ袋に穴を開けて被り、何とか暖をとる。
外では爆発音が鳴り響き、火事も起きていて、休まるどころではなかった。

避難していた母たちは、「〇〇くん、妹の〇〇ちゃん、無事です」
と知っているお母さんたちへメールを送っていた。
そこで、父も近くまでは来ているが、津波で来れないことを知れた。
家族全員無事だった。

次の日の朝、友達と再び屋上へ。
津波が来ていた時から感じていた臭いが、もっと強烈になっていた。
ヘドロやガソリン、何かが焦げた匂い、ありとあらゆる臭いが混ざり合った
なんとも表せない異臭。
破壊された町は、例えると教科書で見た空爆後のような様子。
津波の恐ろしさというのはまだ理解できなかったが、脅威は知った。

朝からは、自衛隊が助けに来てくれて、物資や食料が少しずつ配られていた。
こんなにも、パンひとつに安心感や温かみを覚えたことはない。
でも、次の物資がいつもらえるかは分からない。
クラスへと配られたペットボトルの水を、自分のところへ隠すような大人が出て来た。
こんなのは、まだ序の口だった。

教室では、まだ親に会えてない同級生がいる。
「もうさ、俺の母さんと姉ちゃん、多分死んじゃったよ」
そう言われた私でも、「大丈夫だよ」なんて、
嘘でも言えないことくらいはわかっていた。
「まだ分からないよ」
と声を出すので精一杯。

午後にはバスに乗って、内陸部にある避難所へ向かうことに。
バスまでの道のりで、足場が悪いところは自衛隊の方がおぶってくれた。
避難所である体育館に着くと、人でごった返していた。
私の家族4人は、2畳にもいかないスペースにまとまり、
1枚の毛布を敷いて、もう1枚で被り、私はやっと寝ることができた。

その日から16日間の避難生活が始まる。
朝は5時に起き、食事は自衛隊の方々が作るおにぎりと味噌汁が朝夕の2回。
物資が届くたびに大人たちは列に並んで受け取る。
壁なんていうプライバシーのかけらもない。
夜19時には毛布を敷き始めて、21時には消灯。
寝る時間は長いのに、いつも眠れた感じがしなかった。

地震から1週間経過し、家族で自宅がある閖上へ行った。
道中に見た景色、異臭は、あの時のままで、道路が少し片付けられたくらい。
やっと着いた場所に、家は無かった。
1階のフローリングから上が綺麗に流されていた。
ここがどんな建物があったかなんて簡単に思い出せなくなっているくらい、
どこか知らない町に来たように感じた。

生活が慣れた頃、怒号がたびたび響き渡るようになった。
「誰だー!物資、勝手に盗っていくなー!」
みんなに行き渡るはずの物資が盗まれることが多くなった。
手伝うフリをしながら、勝手に持ち去る大人。
盗みやルール違反を「生きるためだ!」と正当化しようとする大人。
シェアして使うものは、自分たちの好きに使うのに、
それが子どもであると理由も聞かずに怒鳴り散らす大人。
地震の前は、みんなみんな、他愛もないあいさつや会話をしていた地域の大人たち。
そんな、いつもいた大人は、ほとんどいなくなりました。

体育館の後ろの壁には、随時情報が更新される。
亡くなった方の名前も、毎日、毎日張り出されていった。
大好きだった幼稚園の先生の名前を見た時は、悲しくて泣いた。
そのあとも、知っている名前がたくさん載せられる。
小学校では、あの日学校休んでいた1人の同級生が亡くなった。
でも、だんだんと、それも新しい日常になり
「あ、まただ」
と思うばかりで、ほとんど麻痺しているような感じだった。
避難所は、いっときは思いがけない支援で笑顔にはなるものの、
誰かがいつも泣いていて、怒っていて、沈んでいるところだった。

そんな避難所生活を終えて、父の会社が借りてくれた隣市のアパートへ移ることに。
千葉に住む母の友人が、物資を届けようと
連日の報道を見すぎて帯状疱疹になってしまいながらも、
お米や布団や食料、私の大好きないちごをたくさん持って来てくれた。
新しく生活するところには、壁があり、扉があり、温かい部屋があり、お風呂があり、
広々とした布団があり、それぞれパジャマを来て、心置きなくゆっくり眠れる。
今まで、当たり前だと思っていた生活が、本当は当たり前ではないこと。
子どもながらも、ひとつひとつがあたたかく感じた。

4月中旬になり、市内の内陸部にある小学校へ、間借りする形で学校が再開した。
今までとは違う雰囲気に高揚感もありながら、
久しぶりにランドセルを背負って登校した。
新6年生として最初に集まった時、先生たちの顔は笑顔だけど、
どこか疲れているように感じた。
避難所にいるときも、自転車で各所を回って2、3日に1回は会いに来てくれた。
先生たちから発せられる言葉は、生徒たちのトラウマの引き金を引かないように、
悩んで選んだのだろうなと思う言葉ばかり。
「みんなで頑張ろう!」などの、テンプレのような言葉はひとつもなかった。

数ヶ月前に大きな災害があったことを不意に忘れるくらい、
授業は今まで通りになっていく。
支援物資でいただいた学習道具や遊び道具は余るほどあり、
勉強や休み時間に困ることはなかった。
でも、だんだんと間借り先の学校の生徒から閖上小学校に対して、
嫌がらせを受けるように。
低学年が植えたアサガオの芽を全て抜き取られ、
遊具は間借り先の学校の生徒が優先で、並んでいたらすぐに譲り、
自分たちが使える校庭の範囲は狭められていく。
授業参観で来ていたある保護者には、間借り先の学校の生徒からすれ違いざまに
「あ、タダ飯食ってる奴らの母ちゃんだ」
と捨て台詞を吐き、その子は何事もなかったかのように走り去った。
どうやら、一部の間借り先の学校の生徒の家庭では
閖上小学校のことをよく思っていなかった。
何故なのかは、分からない。
現状、間借りさせてもらっている身であり、間借り先の小学校へはペコペコ状態。
「そうだったのね、ちゃんと言ってくれてありがとう」
「嫌な思いさせてごめんね」
と先生は言ってくれるものの、生徒、先生、保護者、みんな泣き寝入りだった。

そんな1年を過ごし、私は閖上小学校を卒業した。

4月からは、家の再建先の学区に合わせて、別の中学校へ進むことに。
その中学校は、間借りしていた小学校を含め3つの地区が集まった学校で、
ほとんどが「はじめまして」といった状態。
入学式を終えクラスに戻り、保護者が教室の後ろで見守る中、自己紹介をすることに。
自分の番になり、名前と出身小学校を言うと、後ろから
「うわ。なんで閖上がいるの」
とはっきり聞こえ、一瞬時間が止まった。

ただの比喩ではなく、自分の中では本当に止まった。

後ろにいた何人かの親から聞こえた。
閖上出身だということに誇りとまではいかないが、
何が悪いの?と思っていたこともあり、少しイラッとした。
でも席についた途端、椅子に縛り付けられる感覚があった。

イジメは月日が経過するごとに、だんだんエスカレートしていく。
仲間はずれや無視は日常茶飯事。
部活では、カバンに砂利を綺麗に敷き詰められ、クラスではものを隠され捨てられる。
言葉では
「支援物資をもらってずるい」
「閖上に帰れ!」
「なんで周りは死んだのに、お前は生き残っているんだよ」
と生徒から言われ、先生も私を嫌なあだ名で呼び続けた。

味方になってくれる友人は何人かいたものの
状況は酷くなるばかりだった。
さすがに言われっぱなしで悔しかった時は母に相談し、学校に連絡してもらった。
次の日には、該当者や担任が集められ、学年主任はこう話し出す。
「なんで、俺が七海のお母さんに怒られなきゃならないんだ」
そう聞いたとき、いろいろな気力が抜けていく感じがした。
あ、この先生は母に怒られたから今みんな集めているだけで、
解決する気はないんだ、と話の流れから感じた。

その時から大人に、特に先生に対しては、
絶対に信用してはいけない存在であると学びました。

その後もイジメは続いたが、3年生の受験の時期に差し掛かったことで落ち着いた。
その頃には地元の学習塾で過ごすのが楽しく、学校の勉強は聞く気は一切なくても、
なんとか塾で受験勉強を頑張れていた。

そんな中学3年生の夏に、前から母と通っていた閖上の交流拠点で、
東京で学生ボランティア団体を運営している高校生と出会った。
初対面でありながらも、中学校での様子や地震が起きた時のことを話した。

すると、こんな提案をしてもらいました。
「来週、うちのメンバーを連れてくるから、閖上を案内してほしい」
これが語り部活動のはじまりのきっかけでした。

本当に次の週には、中高生数人が閖上に訪れ、私の話を聞いてくれました。
しかし、当の私はイジメの話になった途端、なぜか涙が止まらなくなり、
思うように話すことができませんでした。
そんな様子に、来てくれたボランティアメンバーの人たちは
「辛いね、しんどいよね、私もイジメられてたからわかるよ」
「七海ちゃん、大丈夫。私たちはみんな味方だからね、ひとりじゃないよ」
と声をかけて、抱きしめてくれました。
そこから私は高校生になると、本格的にそのボランティア団体のメンバーになり、
県内外で語り部をするようになりました。
語り部やボランティアを通して、たくさんの人と繋がり、だんだんと大人に対する不信感は薄れていきました。

ある日、仙台での活動のあと、地元で活動に力を入れている高校生たちと
会うことになりました。

「海外って興味ある?」
と話かけてくれて、後日、同じ高校の先輩の奈々穂さんが
Support Our Kidsについて教えてくれた。

先輩はSupport Our Kidsの研修でニュージーランドへ渡航していて、
帰国後も留学に興味を持ってもらえるようにと
宮城を中心に活動していることを知った。

そして、2016年の夏、私もSupport Our Kidsの研修でカナダへの渡航が決まり、
震災のプレゼンテーションとして語り部をするチャンスに恵まれました。
プログラムには、1週間の間、自然の中でキャンプをするというのがあり、
その中でも震災のプレゼンテーションをする機会がありました。
練習は重ねたものの、つたない英語で、ちゃんと伝わるかどうかの不安はありましたが、
プレゼンテーションを終えると、1人の同世代の女の子が大泣きしていました。
中には、描写がキツく感じるものもあったので、
どうしよう、こんなつもりじゃ、と彼女の側に行って謝りました。
「謝らないで、私は泣きやすいの、あのときは大変だったんだね」
「あんなに大変だったのに、話せるなんてすごいよ」
と、思っていなかった返事が来ました。

聞いていた他の皆さんも、メンバーを抱きしめてくれたり、
私たちは味方だよ、何かあったら相談してね、と伝えてくれる様子をみて、
ちゃんと伝えられたのかなと、少し安心しました。

帰国してからは、私も本格的に語り部を自分の力でやっていきたいと思うようになり、
その年の秋、山形で開催されたマイプロスタートアップ合宿に参加し、
「ユリアゲ Story Guide.」として語り部プロジェクトを始動させました。
震災当時の体験、震災イジメの体験、減災について、
閖上地区を実際に歩きながら伝える他にも、講演会のように県外で伝えるものです。

自分自身もまだまだ地震や音が怖く、たとえ小さな揺れでも動悸が激しくなったりする。
でも語り部として、心にある想いを言語化し、語りとして発信することで、
前よりも話しやすく、PTSDの症状も落ち着いてきている状態です。
“語る”という形式が、自然と自分自身を立ち直らせているように感じました。

その後は、アショカにて、ユースベンチャーの認定を受け、活動の範囲も広がりました。
そして2018年の春、全国高校生マイプロジェクトアワードに出場し、
個人部門で文部科学大臣賞と高校生特別賞を受賞しました。

これまで、語り部をしていく中で、反応は様々なものがありましたが、
かわいそうだね、大変だったね、と同情の声が多く、
実際に体験談が活かされているかは分かりません。
また、内陸側だから、実際に津波の被害を受けていないし…
という声を聞くこともありました。
助かる命が増えてほしいという想いのもと、伝えて来た語り部に対し、
ただ伝えるだけでいいのか、と違和感を覚えました。

2018年5月からはワーキングホリデーを利用して、
2016年にSupport Our Kidsで訪れていたカナダのトロントへの渡航も決まっていたため、
語り部の原点に戻るべく、休止期間として、語り部の在り方やどんな体験でも、
次の災害で役立てるような方法はないか考えていました。
その間も、トロントではSupport Our Kidsのカナダ研修をボランティアとしてサポートしたり、
マイプロジェクトワードでお世話になった審査員の方からのお誘いで
3.11の追悼式をニューヨークで過ごし、日英での語り部もさせてもらいました。

2019年の秋に帰国してからは、アショカの合宿で出会った
神戸に住むメンバーの「減災活動団体 akari」というプロジェクトに共感し、
加わりました。
akariでは、参加者の被災経験に有無や程度を問いません。
参加者自身が大きな災害に遭うことがなかったとしても、
災害大国の日本で生きる上で、その人にとって大切な人が遭うこともあります。
被災者から未災者へという、従来の語り継ぎではなく、参加者同士がフラットに語り合える空間作りを目的としています。

震災があって良かったと思うことは、10年が経過してもありません。
できれば、イジメも受けずに楽しく学校生活を過ごせていたらと思うこともあります。

それでも、見てくれている人はいて、多くの繋がりとチャンスに恵まれ、
おそらく、震災がなければ歩くことができなかった道を歩かせてもらっている気がします。

これまでの多くの繋がりとチャンスに心から感謝いたします。


ご支援ありがとうございます!いただいた支援金は、被災した子ども達の自立支援活動に充当させていただきます。どうぞよろしくお願い致します。