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 浮見堂の宴 幽玄の琵琶奏者

 遠目には薄墨の袈裟を纏っている様な、判然としない衣の袂がふわりと大きく揺らぎゾクっとする最初のいち弦が響き渡った。

 星月夜の下、哀調を帯びた琵琶の音色と語りは森羅万象に深い情感の波動を呼び起こす。

 鷺池を囲む大勢の人波は障りなく静まりかえり、人間が「自然と一体」になるという状態はこういう事なのかと思い識る。

 琵琶の音色は浮見堂の映り込んだ水面を揺らし、小波のようにひたひたと打ち寄せ、路傍の残生を辿る流離の胸を浸した。


 鷺池の両岸から琵琶奏者が座する浮見堂へ、2本の橋が延びている。
 お堂は勿論のこと、その橋の高欄の柵一本一本にも灯火がともされていた。

 真昼に見た鷺池の「わび、さび」の景色は橙色の炎に焚かれ、彩なす金蘭のごとく、鮮やかな姿を水面に投影していた。

 コンサートが終わり人々が去っても、その景色に見とれる余り、いつまでも立ち去る事が出来なかった。

 茂みの暗がりで彷徨していた鹿たちさえも寝所に帰って行っただろうに。

 遠い辺境の地へ誘うような夜の宴は今以て忘れられられない。


 この夜の宴は、真夏の奈良の風物詩、灯火会(とうかえ)の一環としてこの年初めて開催されたと聞いた。もう20年余り前のことである。

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 台風が襲来して野分が吹きあれ、大地に滞留していた大気の熱を運び去ってくれた。
 青北風(あおきた)と呼ばれる冷気をはらんだ北風が吹き始め、一気に秋めいてきた。

 この時期になるといつもしきりに思う事がある。

 深まりゆく秋の夜半にこそ、さやかな月の光を借景に、浮御堂で奏される幽玄な琵琶の調べを聴いてみたいものと………………


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