ゲーム文化の分岐点


過去ゲーム文化の革新的な変化はインベーダー後、2度あった。

間違いなく「ゼビウス」の発売と「ストⅡ」だ。

ゼビウスは縦シューというジャンルだけではなく、
プレイヤーの基礎力を一気に上昇させたと同時に、
コンパネの形状から、ついでにグラフィックの水準も上げた。
ドット絵にグラデーションやハイライト等の美術センスを持ち込んだ。
さらにはバックストーリーや映画的な展開までもを付加し、
どんどん需要を拡大していった。

当然、8方向レバーが当たり前になったのはこの作品からであり、
またゲームサウンドが「YMO」という権威によるお墨付きを得て、
一気にステイタスを上げたのもこの作品。
薄暗い、背徳的なイメージのゲーム文化を表舞台に持ち込んだ。
たった一つのタイトルが、その後の道筋を決定してしまったのだ。

また、このタイトルが産まれなかった場合、
少なくとも二年位は斜め入力への抵抗が残り、後の歴史が変化したハズで、
テトリスは生まれたかもしれないがストⅡは生まれなかった可能性がある。
そのくらいの革命的な作品がゼビウスである。

例えるならアーケードゲーム進化のツリーに於いて、
インベーダー脊椎動物の始祖だとすれば、ゼビウス哺乳類にあたる。
誰一人ケチのつけようがない巨大な分岐点だった。

ゼビウスだけが10台くらい並んでいたゲームセンターを観た事がある。
明らかに格ゲーブームに匹敵したムーヴメントだと思っているし、
亜流が大量に生まれたもののゼビウスのクオリティに届く作品はなかった。

当時感じたのは、作品世界に呑み込まれたような浮遊感。
既存の面白味の追求というより、想定外の未知の感覚を覚えた。

全てが「イレギュラー」。

グラフィック・ゲーム性・サウンド・エフェクト・・
その全て、これまでとはセオリーがまるで違う。

「何があるのか分からない」


当時の好奇心が無尽蔵に膨れ上がってゆく感覚。
初めて味わう妙なドーパミンが出て喉がカラッカラになっていた。

この作品が無ければ縦シューというジャンルは数年遅れたのは確実で、
幾つかのセオリーが別のモノになっていた可能性すらある。
同じ8方向レバーでも横シューが主流になっていたかもしれないのだ。

またボタンも連打が出来る前提の軽い物になってはおらず、
先にテトリスが産まれれば「十字レバー」主流の世界線すらあるハズだ。
まぁ斜めに入力して弾をよけるなんて、当時はギャンブルであって、
かなりのハードルをプレイヤーに突きつけた。
ゼビウスのあのクオリティあればこそ、斜め入力にチャレンジできたと。

ゲーセンでコンパネの形状はその後、ナムコに倣って水平になっていく。
当時はモニターのサイズ、ブラウン管の表面も平に近づいた気がする。

またゲーム展開のメリハリの付け方もエンタメを理解していて、
作劇的緩急を付け、ラッシュや凪の様な静けさをスパイスに盛り込み、
印象的な集中攻撃や、ボスラッシュの様な大胆な展開を盛り込んでいる。
導入からクライマックスへの起伏を、
当時の少ないリソースの中で生み出していたのに頭が下がる。
変わり映えの無さそうなマップなのに、明確なドラマが織り込まれていた。
膨大なイメージのるつぼ、多くのアイディアが一つに凝縮されていた。

例えば、地上の配色数のパレットをギリギリまで減らし、
その分メタリックシルバーのグラデーションに注ぎ込む大胆さ、
赤から黒への点滅をプログラムにより1色だけ使うなどの工夫、
データを切り詰め、最大限の効果を得る試行錯誤の結晶だろう。

素晴らしい、非の打ち所の無い完璧な作品だった。

そしてこの作品の数多くのアイディアはすぐに浸透していった。

・・・なんかね。
遠藤氏やこの作品を安く言える連中は逆に何ができるのか聞いてみたい。
彼等はゲームがよっぽど嫌いなのかと思ってしまう。

多分彼等はゲームではなく、幼稚な自分が好きなだけだろう。
自分勝手なナルシストって連中だ。
この名作を否定した瞬間にその後のSTGが全部消えるのを判らないらしい。
ヘタすりゃ現在までのゲーム産業まで委縮していた事だろう。

かつてゲームファンのレベルはメチャクチャ低いと痛感した事があるし、
視野が狭く、作為が観えず、おそらくだから衰退したのだろうと。
何故か手抜きを評価しファッションが見抜けず、真贋を真逆にする。

デコがシイタケ栽培に向かった原因はゲーム文化に対する誤認だろう。
プレイヤーが詐欺師に騙され、リスペクトの対象が狂っていたのだ。
彼等はリスクを背負わない方が何故か評価基本点が高く見えるらしいのだ。
マインドに乏しい、魂のこもらない作品を平気で持ち上げる。

オリジナルと亜流の評価が同等ならば、もう誰もリスクを負わない。
手抜きの好きな欲太りの暗記脳が「金が全て」と大喜びするだけだろう。
そこをまず前提にしてクリエイターに対する認識を改めろと。

研究も開発も無駄なコストを支払わず、誰かの正解をパクればいいと。
幾つかの企業はそれでブランドを失墜させた。
そしてそうなったが故、アーケード文化は道を閉ざしてしまったのだ。
まぁ生まれつきそういう物差しだからこそ、罪悪感も無いのだろう。
最初から議論不能で権威から与えられた都合のいい正解しか認めないのだ。

思考停止で洗脳されきって、情緒だけ、威張るだけ、見下すだけ。
それを優秀さだと勘違いした人間のあまりに多いこと。
作家や作品へのリスペクトが無い。

だからあの時、ポケモンはナムコに背を向けたのだろう。
ブランドの変化、内部力学を作品から読み取ってしまったのだと思われる。

FM音源になってからのナムコはクリエイターの矜持が薄れて行った。
当時、ファッションカルトのフェイクの様なセンスを観た時、
なんか、見え見えの作為に乗せられるのが気恥ずかしくなっていった。
バレバレだと。

作品から滲み出すフェチと、見え見えの作為は別である。
バランスが良ければそれでもいいが「本末転倒」の字のごとく、
ストーリーだの設定だのと、全くの小さな枝葉が売りになっていった。
ギャルゲー路線の安直なお色気なんて単なるスパイスの一つに過ぎず、
それはメインじゃないだろと。

矜持を失い魂が抜けて行き、更に言うなら個性と手抜きは別だろと。
ヘタうま、B級と言った潮流はゲームに持ち込む意味が無い。
ブランドのキズになり、ブームの熱が冷めた後見捨てられるだけだ。

かつてブームを作る側だったのが、他人の生んだ潮流に乗っかって行く。
別文化であるアニメや映画にゲーム文化が取り込まれていった。
好奇心で一度きりの消費ジャンルと違い「永久に歴史に刻まれる」のに。
他人の作った流行の中には普遍性は存在しないのだ。

故に当時、夏の終わりの様な物悲しさを感じていた。
一瞬だけの話題性がバケツの中に用済み花火として取り残されてゆくだけ。
まぁこれは昔の話だが。

逆にそういうのを教義とし、未だに思い出補正を宝物にしている暗記達。
暗記アニマルは理不尽に凶暴で我が物顔、会話不能、手に負えない。
彼等の求める宮崎勤のセブンのビデオはよっぽど優れた作品なのだろう。
それを説明できるなら言語化してみりゃいいが不可能に決まってる。
作品が好きなんじゃなく、依存する自分を希少化する装飾品でしかない。
聞きかじりの受け売り評価をなぞるだけ、彼等にはそれ以外不可能だ。
ゲームではなく単に自分が好きなだけ、コミュニティに居たいだけ。
カルト固有の価値観、好戦的で排他的、強気大声だが説得力は皆無である。
こういうのは対象は何でもいい自己投影、単なる偶像崇拝カルトだろう。

だから自己肯定の為の対立軸を望む排他性、マウンティングを繰り返す。
どんどんと閉塞し、内弁慶と化してゆく、需要が減ってゆく。
味を占めた誰かのウソに踊らされ、何の生産性も無く損しかない。
悪貨が良貨を駆逐する、こうして本来の需要は減らされるのだ。

そんな彼等は今ごろ別の流行りものへと偶像が移行した事だろう。
なにしろ自分が好きなだけだろうから。
まただからこそ、レジェンドである遠藤氏を平然と叩き出せるのだろう。
有象無象が何様かと。

そういやゼビウスより東亜シューが優秀とかいう、
まるで思慮の無い、間の抜けたものさしの欲太りに心当たりがある。
ぴ〇〇ととかいうペテン師が同調圧力を扇動したんじゃないのかね?
当然彼の事だからその時だけ名無しを装っていだろうが。
アイツのせいだったとしたら根拠のないとばっちりかもしれない。
アレアレだから犬に噛まれたと思って遠藤氏も大目に見ていただきたい。
(知能が低い顔見知りのせいかもしれないのでこの場で謝ります)

逆に遠藤氏はその後、尖り続けて好き勝手な作風を貫いていったようだ。
大衆性を喪失して埋没していってしまった気がするが、
個人的にはそれはそれでいいと思ってる。
ファッションじゃなく、彼はゲームマニアとして筋が通っているからだ。
何より圧倒的なDNAを残して行った偉人であり、英雄に変わりはない。
偉大なクリエイターの遺伝子は誰かに受け継がれて行くはずである。




そして「ストⅡ」の出現。

この作品の注目点はさらに多い。
これ以前のベルスクは上下の判定属性の違いはなく、
他にも覚えるのに必要な大量の独自ルールを持ち込んだ。
ゼビウス同様、この複雑なルールを定着させるにはよっぽどだろう。
グラフィックに牽引させ、ルールを覚えるまでの人参にしている。
対戦という概念がスムーズに定着したのはストⅡが起点だろうし、
オンライン対戦の発展にも間違いなく貢献しているハズである。
トラックボールは定着しなかったが、この6ボタンは定着した様だ。
プレイヤー側の基礎スキルを一気に4ボタン増やした事になるワケだ。

ファミコンがナムコに牽引された様に、スーファミはストⅡに牽引され、
コントローラーのボタンは6つあった筈だ。
こういうのも相変わらずタイミングがいい、
流れが噛み合うとこういう現象が起きるという事だろう。

ストⅡ更に対人戦という本来なら成立しなかった状況を生み出した。
スコアでもクリアでもないベクトルのモチベが定着していった。
アーケードゲームにスポーツ同様の競技性が発生した事になる。
一気にゲームのポテンシャルは巨大化し、際限なく膨れ上がっていった。

影響を与えたのはゲーム文化だけではない。
個人的にはコスプレ文化の発祥はここだと思っていたりする。
それ以前のコスプレはむしろキャラクターに比重があった。
水着やらと単純に露出の多い方が注目され、コスチュームではないと。
肌色部分の需要が強いジャンルでは無かったか?
フェチではなく肉欲の部分が強かった気がするし、ならもう全裸でいい。
最初はそれがキャラコスプレの本質だったような気がする。
直球のリビドーはあるが造形的な面白味、フェチは無かったと。

それがストⅡで変化した。

チュンリの太ももはタイツに覆われ、とげ付き腕輪はSM的だ。
これがキャラデザインが拗らせ始めた起点だったように思う。
イレギュラーになるアイコンを色々とちりばめ、フェチを追求し始めた。
キャラクターの造形がビジネスになっていく起点だろう。

その前のファイナルファイトもキャプテンコマンドーも尖ってはいたが、
メジャーに注目されたのはチュンリのデザインからだと思ってる。
なにしろ芸能人がゲームキャラのコスプレをしたのだから、
見下されたゲームジャンルの超えるべきハードルを一つ越えた事になる。

ここを起点に人体造形のバリエーションを皆が追求し始めた様に感じた。
ゲームキャラの造形はアニメや漫画、フィギュアへと派生する。
造形の主導権をゲームジャンルが握った気がする。
その後のヴァンパイアでは、更に作画レベルが上がっていたが、
アニメや漫画に取られていた人材がゲーム分野に流れ込んだのだろう。
おそらくストⅡを起点にしてかなりの人材的な底上げが発生した筈だ。
「ドット打ち」から「紙に原画を描く」という転換期が発生した気がする。

今でもキャラ造形のセオリーも未だにストⅡが基本になっている。
下半身を安定させ、左右の足を開いて構えるポーズは、
いずれかの足を軸足にしてもう一方の足を振り回すのにいい塩梅だ。
左右の足でリーチが変わる、上半身の捻りによってパンチの強弱も変わる。
このセオリーを崩した一部の後追い作品がしっくりこない動作だったのは、
ストⅡがいかに試行錯誤の末にその基礎を生み出したかを物語る。

あれには相当なセンスと時間を消費しただろう。
オリジナルにして多くの亜流が追いつけない熱量を含んだ作品だったと。
トレスマンのコピーキャットがこの「密度」に勝てるワケが無いと。
職人である作り手の取捨選択が研ぎ澄まされていたのだ。

かつてこの作品の持つ途方もないポテンシャルを観て、
ゲームがスポーツとして成立する夢を見たが自分はそこに加われなかった。
それでも今現在、多くの人がそこを目指し積み上げていっている。
きっと同じ想いの人は思いの他居たのだろう。
なら、

「結果よければすべてよし」


としておこう。

(それにしても、あのアホ連中は一生何もかも邪魔するよな。)

おしまい。

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