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夫のセカンドばあちゃん《創作大賞2024/エッセイ部門応募作品》

夫にはセカンドばあちゃんがいる。
義父母と共に、幼少期の面倒を見てくれたおばあちゃんだ。
血の繋がりは、ない。

夫はセカンドばあちゃんのことを苗字で呼ぶが、それをそのままここに書くことはできないため、便宜上「小畑(こはた)さん」とする。いつも畑で野菜の世話をせっせとしているので、小畑さんとしてみた。

私が知っている小畑さん情報は次のとおり。
元々保育士をしており、退職後、元教員の夫と共に近所の子供たちの面倒をみ始めたこと。当時、子供を預けるところがない女性たちが仕事を続けるための支えとなっていたということだ。

なお、夫は、元教員である小畑夫を小畑先生と、元保育士である小畑妻を小畑さんと呼ぶので、夫妻のことは以下もこのように呼び分けたい。

夫が産まれた頃、義母は仕事に復帰するため、子供を預けるところを探していた。

当時の制度を調べてみたところ、まだ育休制度が始まる前のことであり、女性陣は産休だけを取って復帰する必要があったようだ。そういった事情もあって、子供を産むと同時に仕事を辞める女性も多かったと聞いた。
いやしかし、育休がない…だと?産休明け仕事復帰ということは、回復しきらない体とまだほにゃほにゃの赤子を抱えて仕事をするということだ。それだけで当時の女性が仕事を続けることがいかにハードだったかがよく分かる。

そんな時代の中、義母は夫を授かった。仕事を辞めたくなかった義母は、仕事復帰のために預け先を探しはじめた。が、中々預け先が見つからない。仕事の復帰が危ぶまれる中、近所に、子供を預かっている小畑さんという方がいるという話を耳にする。藁にもすがる思いで義父母は小畑家を訪ねた。

「ごめんなさいねえ。もう預かるの辞めたのよ。」

詳しい事情は分からないが、このようにして断られたという。
しかし小畑さんに断られてはどうしようもない…ということで、義父母は三顧の礼を尽くし、とうとう小畑さんに「いいよ。」と言ってもらうことに成功した。

そんなわけで、産まれてすぐの頃から、義父母が仕事の間は小畑家に預けられることになった夫は、小畑さんに育てられたと言っても過言ではないのだ。

保育園が見つからないうちは1日のほとんどを、保育園が見つかってからは保育園帰りを、小学校以降は学校帰りを必ず小畑家で過ごし、そこでご飯を食べ、休みの日は小畑先生も一緒にピクニックに、時に山登りにと、本当の祖父母のように、いや、本当の祖父母以上に小畑夫婦が面倒を見てくれたんだ、と夫は懐かしげに言う。

そんなだから、血の繋がりなど関係なく、夫にとっては遠方に住んでいる実の祖父母よりも、小畑夫妻の方をより身近に感じているようであった。

こんなエピソードがある。

夫とは、私が30歳の頃に出会った。ちなみに夫は私の2つ年下である。
結婚することになったのは私が31歳のとき。当時の私は、20代で遊びたいだけ遊び尽くし、精神的には少し落ち着いていた頃だった。
20代前半の頃には持ち合わせていた結婚式への憧れも、友人からの結婚式裏話を聞いたり、2次会幹事を務めたりする中で、どんどん薄れていった。

そんなわけで、夫には「結婚式はしたくない。準備が面倒なうえお金がかかるので、その分新婚旅行にまわしたい。」と打診した。
男性は結婚式に消極的、という自分の中の思い込みもあり、夫は当然この打診に是と答えるものだと思っていた。

ところが、夫はこう答えた。

「自分は結婚式を挙げたい。」

思いもよらない回答に「え、まじで?」と答えたのを今でもよく覚えている。よくよく話を聞いてみると、お世話になった小畑さんという祖母のような女性がいて、そのご夫妻に結婚式に来て欲しいのだという。

そう言われては中々断りづらい。
ということで、夫には「私自身は結婚式の準備が面倒なので挙げたくないという気持ちに変わりはない。だから、準備はあなたが主導して行ってください。」と伝えた。

結果としては、せっかちな私が色々と準備をやることになるのだが、夫も打合せや決め事等かなり積極的に準備に参加していたように思う。

結婚式当日、午前中は親族のみのプチ披露宴、お昼に挙式を挟んで、午後は友人を招いての1.5次会、という少々変則的な形ではあるが、無事に式を挙げることができた。
また、夫の希望で招待した小畑夫妻は、夫の結婚にとても喜んでくれ、特に小畑さんは目頭を押さえながら喜んでくれた。その姿を見て嬉しそうにしている夫を見て、「準備は大変だったけど、式を挙げてよかった。」と思ったものである。

私と小畑夫妻はその日が初対面。

とても優しそうな老夫婦で、小畑さんが私に対し、「ちょっと抜けたところのある子だけど、どうぞよろしくね。」と涙を流しながら言っていたと記憶している。

血が繋がっていなくとも、長い時間面倒を見ていた子供が巣立つというのはやはり感慨深いものなんだろうなと、こちらもぐっとこみあげてくるものがあり、うっすら涙を浮かべながら「はい。」と答えた。

ちなみに、親族だけの披露宴には、夫方の遠方の祖父母は呼んでおらず、そんな中呼ばれている小畑夫妻に、夫にとってはそれだけ大切な存在なのだと改めて実感した。

義母と小畑さんの関係も、とても素敵なので少しご紹介したいと思う。

長年子供を預かってくれた小畑さんと義母との間には、単なるご近所さんという関係を超えた、絆のようなものを感じる。
会話には全く遠慮がなく、「え、親子?」というような間柄。
一緒に畑を耕したり収穫したり、貰い物があれば必ず一番におすそ分けをする。
また、年末は義父と小畑先生とが協力して打った蕎麦に舌鼓を打ち、年始にはお互いの家族分きちんとお年玉を準備する。

今時親族でもここまで密にコミュニケーションをとるのは珍しいのではないだろうか?おそらく今までも、お互いが困った際には何くれとなく助け合ってきたのだろうと思う。

なお、小畑さんは、義母のことを、「よく喋るけど、いい人よ。姑としては当たりね。」なんて言ったりする。その評価通り、よく喋るが、人を傷つけるようなことは言わず、夫婦のことには口を出さない系のよき義母なのであった。

また、我が家に娘が誕生した際には、夫から「小畑さんと小畑先生に見てもらいたい。」という申請があったので、小畑夫妻を我が家にご招待した。義父母が娘を抱いているときよりも、小畑夫妻が娘を抱いているときの方が感激した様子の夫に笑ってしまったのは内緒である。

小畑さんは、「今まで面倒を見てきた子が子供を産んだ時には、必ずこれをプレゼントしているの。よければ使ってくれると嬉しい。」と、キャンディーとリボン柄の可愛い布を丁寧に縫い合わせたマットをプレゼントしてくれた。

娘が小さい時にはよくそれに転がしていたし、少し大きくなってからは、おねしょ対策で布団の上に敷いている。非常に大活躍のマットなのである。

そのマットを見ていると、娘も小畑さんの門下生に加わったようで、ちょっと楽しい気持ちになる。

私は会ったことがないが、夫のように、小畑さんに面倒を見てもらった子供はたくさんいるそうで、昔は時々小畑家に集合してみんなでBBQをしたりゲームをしたりと一緒の時間を過ごしたらしい。
全員が成人し、家庭を持ち、中には県外に出る人もいる中で、最近ではそういった催し事をすることもないようだが、小畑さんという太い柱を中心に、血の繋がりのない沢山の子供たちがそういったあたたかいコミュニティを形成するのは、中々簡単なことではないからこそ、とても素敵なことだなと思う。
昭和〜平成という時代ならではのことかもしれない。

私自身は現在30代で、必死に子育てをしている真っ最中。小畑さんのような形で社会に貢献することはできないのだが、自分自身が子育てを完了し、仕事も終わり、老後に入った際には、小畑式とまでは言わずとも、なんらかの形で子育て世代の力になれるようなことをしてみたいなと薄っすら考えていたりもする。

恐るべし、セカンドばあちゃんの影響力!いつのまにか私の思考にまで入り込んでいるのである。

まだまだ元気とはいえ、年齢を重ねているセカンドばあちゃんこと小畑さん。そして小畑先生。せっかくできたご縁。夫と娘と共に、これからも大事にしていきたいと思う。





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