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考えることと感じることの限界

未来を考えるために 第一回

 そろそろこの終活も終わらせます。2回くらい使ってこれからを考えるための材料を挙げていこうと思います。
 今回は感覚と思考の限界についてと、ことばの持つ可能性について、書きます。

1.感覚のいい加減さ

 「人はそれぞれ違うものだから」というのは、まったくその通りです。ですが、だからといって、感性や感覚的な物言いが何でも肯定的に受けとめられるべきかと言えば、そういうわけではありません。ヒトの意識の感覚なんてものは、結構いい加減なものなのです。
 わかりやすそうな例を以下に挙げてみます。

・20℃の気温に対して…
真夏の「私」は寒いと感じ、真冬の「私」は暑いと感じる。

 真夏に寒くて「暖房をつけたい」と思ったり、真冬に暑くて「冷房をつけたい」と思ったりすることがあります。でも、気温とエアコンの設定温度を見比べてみれば、自分がおかしなことを思っていることに気づきます。

・気温25℃でも室内は暑くなっていくけど…
体温36℃の「私」が原因であることには無自覚だったりする。

 人と一緒にいると、その人を温かいとか暑苦しいとかとは思いますが、自分もそうだと思うことはあまりなかったりします。余談ですが、このことから、人口が70億人に増えている時点で、陸上は温暖化しているんじゃない? と個人的には思ってます。

 このように、ヒトの意識の感覚というものは、自分を基準としたもののため、自身の変化に鈍かったり、物体としての自分のことが見えていなかったりしているものです。
 こういうことは、温度計のようなものを使い、そちらを基準として考えることをしないと、わからないことです。
 この、「自分の外に基準を設けて考える」ということが、ざっくり言えば「科学」の考え方です。この考え方を使えず、今の自分の感覚だけを基準とするなら、自分は不変の存在と感じられ、自身の変化に対しては「気がついたら、こうなっていた」というようなかたちでしか認識できないことでしょう。
 「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」と『伊勢物語』で詠まれていること、養老孟司さんが「変わらない自分」や「死なない自分」という言い方で繰り返し言及していること、あるいは、日常的にお酒を飲み続けてアルコール依存症になってしまった(=気がついたら、身体にお酒が入っていることが常態化してしまった)ことなどは、みんなこのことを現しているように思われます。
 人工知能がヒトを超える、シンギュラリティというのが話題になったりますが、はっきり言ってヒトの意識なんてこの程度にいい加減なのですから、厳密さではとっくにヒトを上回っているんじゃないかと思われます。むしろ人工知能がヒトに劣っているのは、いい加減さの方なのでしょう。もしも数多くの情報をきちんと総合的に判断できるような人工知能ができたら、ヒトを観察して、「なんでこいつらこんなにいい加減で大丈夫とか問題ないとか思えるんだ?」と考え出すことでしょう。

2.思考の限界

 では、考えることが大事だとして、考えることには感じることのような限界は存在しないのでしょうか? そんなことはありません。ヒトも生物である以上、思考にもくせや限界が存在します。このことは、2000年以上前に、もうわかっていた人がいます。「ゼノンのパラドックス」というのがそれです。
 個人的な考えですが、「ゼノンのパラドックス」というのは、解き明かすためのものではなく、ヒトの思考形態、あるいは思考の限界を示したものなのではないか、と思っています。

 「飛ぶ矢は飛ばない」というのは、実際にそうなのではなく、ヒトが区切って考えることしかできないということ、あるいは運動の認識そのものが区切られた認識からの復元という形でしかできてないというヒトの思考形態を示しているのではないかと思われます。このことは、現代のアニメーションにおいて、実際に近い形で動いているCGよりも、部分を省略したコマ割りの方が感覚的にはしっくりくることによってわかります。
 この、「区切る」ということが、意外と(外界についてではなく)ヒトの意識にとっては、核心とか真理とか言われるものに近いように思われます。なぜなら、ことばも、おカネも、この「区切る行為」にほかならないのですから。

 「アキレスは亀に追いつけない」というのは、その「区切って考えること」はいくらでも細分化できてしまうこと、その細分化されたものから全体を復元することの困難なこと、そして、当たり前ですがその区切るという行為によって範囲が限定されてしまうことを言っているのではないかと思われます。最初の2つは0.5+0.25+0.125+……、あるいは1/2+1/4+1/8+……と無限に繰り返せるし、それは1に近づくけど1にはなれない、ということです。3つ目は、そもそもスタートからアキレスが亀に追いつく時点までで区切っているから追い越せないのであって、追い越した後の時点までに区切りを変えれば追いつきも追い越しもする、ということです。
 でも、一度決めた区切りを変更することは、大げさに言えばこれまでの世界をずらすことを意味しますから、実際にやるのはとても難しいことです。このことは、価値観や価値体系が揺らいでいる現代(この原稿は西暦2010~20年台に書かれています)の人々にとっては、わかりやすいかもしれません。旧来の価値観のままで、不適応を起こしている人々のニュースは、後を絶ちませんから。

 「競技場のパラドックス」というのは、その区切りをずらしたらどうなりますか、という話なのでしょう。どこかを基準にしなければ、計ることさえできないよね、ということを物語っているように思われます。

 ゼノンは「二枚舌(現代風にいうならダブスタでしょうか)のゼノン」と呼ばれたりもしたそうですが、そういう普通の人たちが意識せずにやっている区切りとか基準とかを見抜いたり、自分は自在に行き来してみせたりして遊んでいたのでしょう。そう考えると、彼もある種のブッダ(目覚めた人、悟った人の意)だったと言えるのかもしれません。

 ちなみに現代の「シュレディンガーの猫」というのも、これと類似の話のように思われます。実際に猫が半分生きていて半分死んでいるわけではなく、ヒトには確率論的にしか論じられない、という観測限界の話なのではないかと思われます。「量子もつれ」も同じように観測限界の話なのではないかと私は解釈しています。

3.ことばの未熟さと可能性

 このように、感覚はいい加減なものだし、思考には限界があります。悲観的になってしまいそうですが、まだ可能性を見出せるものはあると個人的には考えています。それは、ソクラテスの「無知の知」と同じようなものですが、「感覚はいい加減なものである」「思考にも限界がある」と認識することができる、ということです。たったこれだけのことが何でそんなに重要なのかというと、この認識には、大まかに2つの可能性が秘められているからです。
 ひとつは、自身の感覚や思考による判断に疑問を持てるようになることにより、違う選択肢を持てる可能性が生まれます。要するに一択でない他の選択肢を探すことができるのです。世の中には全てを一択問題にして欲しい人も多いみたいですが、「どうしてべんきょうするの?」に書いたように、判断力の低下や欠如はある意味で意識が自己の役割を放棄していることになると考えられます。そりゃ虫や細菌みたいになれば考えないで済んで(というか考えることができなくなって)楽でしょうけど。
 もうひとつは、事後的にそういう認識を持てるようになれること、また、そのことを他者へ伝達できること、それは遺伝子に頼らない情報伝達の手段である、ことばというものの可能性です。この項ではその話をしようと思います。

 ことばという情報伝達手段は、遺伝子などに比べれば遥かに新しく現れたものです。なので、その使用に関しては、まだまだ発展途上段階といえると思います。ここではいくつか例を挙げて、そのことを示してみようと思います。

 宗教や神話の伝承というのは、ことばによる表現と情報伝達の拙さをよく表しているように思われます。「かみさまって、いるの?」に書きましたが、唯一神や絶対神というのは、「私」という意識が感じている世界についての話、つまりは主に認識論の話です。たぶん。多神教というのは、水とか火とかの外界であったり、酒(の酔い)とか芸術とか、ヒトが生み出したものであっても思うようにならないもの、つまりは「私」という意識の外にまつわる話です。
 それを、他人にわかってもらうように、そして多くの人に伝わるように、簡単な表現に変えたり、物語化したり、多くの尾ひれがついたりしながら残ったのが、今あるものなのです。おそらく、わかりにくかったりバズらなかったりで、数多くの伝承が消滅しています。
 このように考えると、教典や神話の伝承において、より古いものが尊重されたり、一字一句間違わずに伝えることが重要視されたりする理由がわかります。そこにある文言はコード化されたものであって、下手に改変するとデコードできなくなる恐れがあるからです。この伝承とデコード(読み解き)が社会に必要とされるからこそ、教団や宗教家は保護されたのでしょう。
 預言者や新たな教派・宗派を作った人物には、このデコードに成功した者もいるのかもしれません。社会に都合の良い誤解や曲解をした人も多そうですけど。
 こういったことからわかるのは、伝承されたことばを読んだり、理解したり、書き残して次の世代へ伝えたりできる人が、希少であったことです。大半の人は生きるための暮らしに従事するだけだったでしょうから、話し言葉と、必要最低限の文字だけで一生を終えていたことでしょう。

 哲学や文学というのも同様のことが言えそうです。哲学はことばで世界を記述しようとする営みみたいなものでしょうし、文学はそれを論だけでなく、物語や散文や詩のように、他人にわかってもらえそうな形で表現しているものでしょう。そういう形でしか表現できない人が書いたのかもしれませんし、そういう形でしか表現できそうにないものを表現しようとしたのかもしれません。そして、やはり同じように数多くの著作が今に伝わらずに消失してしまったことでしょう。

 ことばを操れる者が希少だったという点では、中国の科挙制度というのも、似たようなが言えそうです。どうして実際の人と人との関係ではほとんど役に立たなそうな古典の暗記や詩文の作成が試験となったのか。それはことばを理解できることや操れること、表現できることの証明だったのではないでしょうか。結果としては、そういう教育を受けることができる財力の証明という形になってしまいましたが。

 ここまで見てきたように、ヒトはことばを使って情報を後世に伝えることができるようになってはいます。しかし、それがうまくできているとはとても言えそうにないのが現状です。
 現代も、これまでなかったほどことばは溢れていますが、そのほとんどは話し言葉の延長にあるもので、1年後には消滅してしまうもの、意味の通じなくなっているものばかりです。量が増えただけで構造的には何一つ変化が見られません。
 この、いかにも拙く、未熟なことばによる情報伝達のあり方を見ると、まだまだここには未来への可能性があるのではないかな、と思ってしまいます。

 まあ、量が増えた分だけかえって伝えていく、残していくことばへのアクセスが難しくなっている、バベルの塔の神話状態の現代そのものが、ヒトの限界を表しているとも言えてしまいそうなんですけど。

主な参考文献

『理性の限界』 高橋昌一郎著 講談社 2008

『知性の限界』 高橋昌一郎著 講談社 2010

『感性の限界』 高橋昌一郎著 講談社 2012

人生をひもとく日本の古典 第6巻『死ぬ』
久保田淳[ほか]編著 岩波書店 2013

『養老孟司の<逆さメガネ>』 養老孟司著
PHP研究所 2003

『まともな人』 養老孟司著 中央公論社 2003

『ゼノンのパラドックス』 Joseph Mazur著
白揚社 2009

『アキレスとカメ』 吉永良正著 講談社 2008

過去記事
「かみさまって、いるの?」
「どうしてころしちゃいけないの?」
「どうしてべんきょうするの?」

 もう与太話はやらずにあと1回か2回で終わりにする予定だったのですが、書ききれないものが出てきたので、やはり合間を入れることにします。次回は「ヒジャブと18禁止コンテンツの演出と性犯罪者の言い訳と」をやる予定です。

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