見出し画像

リンクスランドをめぐる冒険Vol.43 内的変化と「闇の奥」 

前回のあらすじ
マレー湾に面した、スコットランド北東部のリンクスコース、スペイベイ・ゴルフ・クラブでプレー。ロケーションは良いものの、メンテ不足のせいもあって気分が盛り上がらず。やはり売却が決まったコースというのは取り壊される家のように喪失感を持っているのだろうか?売却先は投資家グループ。どうやら世界に誇れるコースにしたいらしい。そんなコースになる前、プレーできたのは貴重な体験だったかもしれない。

旅は半ばも過ぎて…

スコットランドのローカルコースを巡る1人旅は3週間目に突入していた。

これが取材旅行だったら、音を上げる頃だ。
私の場合、海外取材は3週間が限度だった。
今のようにインターネットがない時代、海外で国内の仕事をする環境がないという理由もあるが、2週間を越えて残りが3〜4日になると、それが途方もなく長く感じる。
日本語が恋しくなり、ラーメンが食いたくなる。
海外取材はカメラを担いだ1人旅の方が多かったが、たまにカメラマンと同行する場合もあった。
そんな時、残り日数が少なると禁句のルールを作る。
「ラーメン食いてえ」と先に言った方が成田空港(まだ羽田の国際線ができていない時代だ)でラーメンを奢るのだ。
たいていはカメラマンが負ける。
なにしろ、ルールを作るのは私だ。
勝負事はルールを作った方が絶対有利なのだ。
成田空港に着いて、荷物のピックアップもそこそこに食うラーメンの味は絶品だった。
普段なら見向きもしないようなラーメンでも。
閑話休題。

今回、仕事ではない、といえども過去の海外取材の経験から3週間目は精神的にキツくなるかもな、と予測していたが、それは見事に外れた。

ホテルのフロントとプロショップのスターターとしか会話しない日が何日も続いたけれど、インターネットのおかげで日本語が恋しい、誰かと会話したい、という欲求は起こらなかった。
取材旅行の時よりずっと粗末な食事を続けていたのに日本食はおろかラーメンすら食べたいと思わない(カレーヌードルのおかげもあるだろうけれど:Vol.26を参照のこと)。
朝、目が覚めた時に曇り空でも小雨でも憂鬱にならない。
観光地にはほとんど行かず、宿とゴルフコースと移動の日々。
若干の寂寞感があったのは、残り日数を数えた時だった。

移動の途中、パーキングエリアに車を停めて波すら立たない鏡のような湖面を前にサンドイッチを頬張ってコーラを飲んでいた時。
海と陸の緩衝地帯、リンクスに放牧された羊たちが草を食んでいるのを眺めていた時。
人影がまったく見えない小雨まじりの静寂なコースでティーイングエリアに立った時。
あるいは、一晩しか泊まらない場所、一泊だけのホテルで照明を消し、眠りに落ちる、ほんの一瞬。

このまま、日本に戻らずスコットランドで彷徨い続けるのもいいかもな…。

ふと、そんな風に思う時すら、あった。

旅の魔力の甘い囁き

誰だって、3週間近く仕事を休んで自分の好きなことだけをやり続ければ、内的変化が表れると思う。

…逆に、寄る辺のない不安を感じてしまう人もいるだろうけれど。

私は、精神にこびりついていた檻のような固い錆が剥がれ落ちている気がした。
スコットランドに2週間あまり。
慣れてきているといっても気を張って毎日を送っていることに変わりはない。
錆をこそげ取っているのは適度な緊張感だろう。
錆が固まってくると慣れと怠惰に抵抗を感じなくなり、むしろ浸かることに安心感すら覚える。
剥き出しになろうとする精神は適度な緊張感を喜び、毎日を新鮮にしてくれた。

明日はどこへ行こう?
今度のコースはどこにしよう?
どんな景色が見られるだろうか?
ドライバーは真っすぐ飛んでくれるだろうか?
できれば、バーディを取りたいよな…。

そんな欲求が高まるほど、この旅を終わらせたくない、旅をずっと続けていたい、このままスコットランドで彷徨っていたい。そんな気分になる。

家のことも仕事のことも考えず…。

ドロップアウト。

この言葉が警報のようにフラッシュして思考の彼方に消えた刹那、背筋に冷や汗が吹き出た。

…あぶない、あぶない。

魔力はいつでも忍び足だ。ウロウロしていることに気がつかないとすぐに取り憑かれる。
旅の深層部に身を任せるのも興味深いが、それは今ではない。
いつか「The Horror! The Horror(※)」の言葉を聞くためにとっておこう。

もっとも、ライターなんて頓痴気な商売を選んだ時点でドロップアウトも同然なのだが。

続く

※ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」でクルツが最後に言う台詞







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?