太宰治「女生徒」
有名な作品なのに、読んでこなかったことから、太宰に関する類書を読んでいたら、有明淑(ありあけしづ)という女性の日記をわりとそのまま使っている、ということを知った。じゃあ、その日記を読んでみたい、と思ったけれども、それは単行本にはなっていないようだった。
中原淳一のことが好きで、中原淳一関連の本については、おそらく相当数読んだと自負する私であるが、有明淑の日記の中には、ある意味で中原テイストとも呼べるべき何かが存在するように感じた。太宰の完全創作でないのであれば、淳一テイストの存在はより確実なのではないか。
いずれにしても、「女生徒」面白い。文体も、清少納言風味というか、件の日記もそうなっているのかわからないけれども、80年代の堀田あけみなどを評して、新言文一致なんていった記憶がよみがえるが、それに近しいような気がした。
物語、というには、語り手の女生徒のはじめとおわりがはっきりしないので、独白体として、その思想や気質、表現の面白さなどをあじわうものだろうが、日記問題があるから、これを太宰の創作として読み切るには、なかなか難しいような気がした。
だから、思う存分、有明淑という一人の女性の独白として、読んでみようと思うわけだが、「ロココ料理」のくだり。
映画『下妻物語』において、深田恭子演じる桃子が、冒頭の一人称部分でロココ趣味を展開する部分。そもそもは、嶽本野ばらの小説にあるわけだが、映画の中の独白は、太宰の「女生徒」っぽい。
50歳のおじさんが、若い女生徒の一人称やその思想について、あれこれいうのは恥ずかしいので、永井荷風について書かれたところに注目してみたい。この女生徒が永井荷風の「濹東綺譚」について、感想を述べるところがあるのだけれども、これが原本にどんなふうに書いてあるのかが気になるけれども、荷風の話をしながら太宰のことに寄っている気もした。
「寂しさ」ってなんだろうな、って今でも思ってる。中井正一の『美学入門』だったかに、「寂しさ」なるものが色々経た上での至上の価値のように書かれていて、これってなんだろうって思ったことから。中井正一も、ある意味で昭和10年代の人だから、この「女生徒」の荷風を評する「寂しさ」と何か時代的なつながりがあるのかな、と思った。
「皮膚と心」の話とか、色々と面白いエピソードあるけど、全部書けないな。
あっちょんぶりけ。
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