イタロ・カルヴィーノ『蜘蛛の巣の小道』 〜Recycle articles〜

こんな素朴にカルヴィーノを読んでいいのか?と言われそうだ。

第二次世界大戦末期のイタリアに出現した対ファシズムのパルチザン。

そこに少年ピンが参加して大人の世界を垣間見る。

そんな、どこかロードムーヴィーのようなイメージで、本書『くもの巣の小道』を読み切ってしまった。

本来であれば、裏切りや権謀術数や性欲などのような、エグい世界が展開されてもおかしくないのだが、ピンの語りがユーモアに満ちているので、世界の残酷さがほどよく中和されて、読みやすく仕上がっている。



カルヴィーノといえば、どちらかというと奇想を散りばめ、言語的伽藍を巧みに造り上げる作家だとして認知されている。私もそう思っていた。

しかし『くもの巣の小道』はイタリア戦後文学の枠組みに着かず離れずにある奇妙なネオ・レアリズモ作品である。

少年ピンはドイツ兵のピストルを興味本位で盗み、弄んでいた。すぐに露見し、彼は連れて行かれ、尋問される。ピンは、ピストルを隠したのは「くもの巣」だ、と言ってきかない。独房に放り込まれる。そこで知り合うルーポ・ロッソと脱獄。ところが、あたりを偵察にいったルーポ・ロッソは帰ってこない。独りになったピンは、懐かしい「くもの巣」に向かい、そこでピストルを再び手に入れる。

それに、このピストルにしろ、どうすればいいのか彼にはわからないのだ。弾丸のこめ方だって知らないし、こんなものをもっているところを見つかったら、間違いなく殺されてしまうだろう。彼はピストルをまたケースの中に入れて、もとどおり石と土と草の葉で隠しておく。そのあとはもう、当てずっぽうに野原を歩いてゆくよりほかはなく、まるっきり、どうしたらよいのか、見当がつかない。
 用水路の道を歩き始めていた。用水路にそって暗闇のなかを歩くのは、すぐに平均失って片足を水のなかに落して濡らしてしまうか、さもなければ谷川の斜面のほうに転げ落ちてしまう。ピンは平均をとることにいっさいの考えを集中する。こうしていれば、眼窩の奥にははやくも重たく渦巻いているぬくもりをなおひきとめておけると、彼は信じているのだ。しかしもう手遅れだ。涙は彼をとらえて、瞳をくもらせ、まつ毛を浸している。初めは声もなく、静かにこぼれ落ちているが、やがて喉をつきあげて出る嗚咽の音とともにとめどなくあふれ出る。


独りになって、ピンが泣きながら歩いていると、パルチザンの一人と出会う。そして、そこに成り行きで参加することになる。

 「クジーノ、トラックは何しにやって来たんだい?」
 「私らを殺しにさ。でも、私らのほうでお迎えにいって、逆にやつらを殺しちゃうのさ。これが人生なのさ。」
 「お前もいくのかい?」
 「もちろん、ゆかなきゃならないよ。」
 「歩き疲れちゃいないのかい?」
 「もう七年間も歩きづめで、寝るときだって靴をはいたままさ。死ぬときだって、私は靴をはいたまま死ぬのさ」
 「七年間も靴を脱いでいないのかい、たまげたぜ、クジーノ、足がくさくなっちゃわないかな?」

ピンはピストルを盗んだことで、子どもの世界から引きはがされ、大人の世界と否応なく関わるようになっていく。

けれども彼は、ファシズムとパルチザンの関係について、俯瞰的に理解することができない。

けれど、そこにいる人々のヒロイズムや明るさに感応して、元気を取り戻していく。

レーニン、メンシェビキ、トロツキスト、新しい言葉が、呪文のようにピンを夢中にさせる。

しかも、ここのほうが何もかもずっと素晴らしくできている。森の中で、銃声の伴奏つきだし、おまけに聞いたこともないような、愉快な言葉までとびだして来るのだ。

しばらくして、別ルートで帰ってきたルーポ・ロッソと少年ピンは出会う。ところがロッソはピンにこう言う。

誰にも言うんじゃないぞ。おれは知ってるんだ。ドリットの部隊には、ならず者ばかり送って寄越すんだ。旅団でもいちばん駄目なやつばかりさ。お前もきっと子供だから、ここに置いとくことになるだろう。お前さえよかったら、替れるように何とかしてやってもいいぜ

少年ピンが参加している部隊は、パルチザンの中でも「ならず者」たちばかりで構成された部隊だった。けれど、料理番の「クジーノ」と、その見習いになったピンは、そんなどうしようもない状況の中で、心を通わせていく。



ピンは歴史や政治を知らない。

知っているのは身の回りにある人間関係とそれぞれに対する印象だけ。だから、ドイツ人とイタリア人の関係も、等身大だし、その背景にある政治思想にも一顧だにしていない。

むしろ、ピンにとって重要なのは、彼らが皆大人だと言うことだ。大人には真剣さが足りない、とピンは考える。

大人なんてヌエみたいに得体の知れない裏切り者ばかりだ。子どもが遊んでるときのあの恐ろしいほどの真剣さはこれっぽっちもありゃしない。そのくせ彼らにも遊びはあるんだ、それもだんだん真剣になってゆき、遊びのなかでもまた遊び、結局はどれがほんとうの遊びなんだかわかんなくなってしまうんだ。

子どもにとって重要なのは遊びを通して何かを学んでいくことだとすれば、真剣に遊ばなければそれは達成できない。

大人は「遊ぶな、勉強せい」と言う。では「真剣な遊び」と、「自動化した学習」のどちらが有効だろうか。

そもそも遊びは態度ではないだろうか。

「学習」と「遊び」が対立するのではなく、「自動化」という態度と「遊び」という態度が対立するのではないか。

ピンが入れられた部隊にいる大人たちは、一般的な社会においても、パルチザンという組織においても、おそらくははみ出し者だった。

実際、不注意から火事を出し、アジトを駄目にしたこの部隊は、森の中をさまよう羽目になる。

ピンは、子どもの世界に近い、こんな大人たちに感化されながらも、彼らがときおり見せる戦争、名誉、恋愛、憎悪といった社会的な意識について、まだ理解できない。

部隊が崩壊し、ちりぢりになったあと、ピンは自分だけの秘密の場所である「くもの巣」へと戻る。そこで、クジーノと再会する。

  「蛍がいっぱいいる」と、クジーノが言う。
 「近寄って見ると、蛍って」と、ピンが言う、「こいつらも嫌らしい動物だよ、赤っ茶けててさ。」
 「うん」と、クジーノが言う。「でも、こうして見ていれば、綺麗だ。」

ピンは、まだ、クジーノのいう比喩を実感としては理解し得ない。彼に、そんな時期が訪れるのだろうか。

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