太宰治「東京八景」

「思い出」もそうだけれども、太宰は今までのことを総覧的に語りなおそうとする作品をつくる。

「東京八景」もその一つだけど、「思い出」にあるような気どりやポーズはない。だから読みやすく、心に伝わる。

芸がない、といわれることもあるかもしれないけど、すでに人生がインパクトだらけなのだから、逆に余計な綺羅はいらないように思う。

二度目の結婚を経て、多少なりとも作品が世に出て、それなりに金銭にも余裕が出た太宰。多少のお金をもって東伊豆の先に宿をとって、そこで小説を書こうと出かけた。ひなび過ぎた温泉地、ここだと思って入った旅館は、最初の下宿よりも貧相で、価格交渉したものの、いまいち満足感が薄い…

そこに東京の地図を広げて、今までの遍歴を思い出しながら、自分の東京の良き風景を決めよう、そして、太宰は今までの自分のやってきたことを振り返り始める…

とそんな感じの小説。

東京八景。私は、その短編を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった。

太宰の32歳は、今の50歳だろう。この文章の年齢を五十に入れ替えて、「私」を私に置き換えても成立する文章に思った。

《東京八景。私は、その短編を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。30年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし50歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に老年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しい哉それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の50男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった。》

自身の東京八景を書くか。そう思いながら、太宰の「東京八景」を読んでいくと、今まで古い順にのったらのったら読んで来たことで、太宰のやってきたことが頭に入っているので、それを辿りながらしみじみと理解することができた。

太宰本を読み始めた最初の頃『図説 太宰治』の中で小山初代との結婚生活について、どうして婚約したのに、田辺あつみと心中するんだろうと不思議に思ったものだ。そうした、不可解な出来事への太宰の解答がわりと素直に書いてある。

また、今までの小説のモチーフのようなものも、色々見て取れる。

Hは快活であった。一日に二、三度は私を口汚く呶鳴るのだが、あとはけろりとして英語の勉強をはじめるのである。私が時間割を作ってやって勉強させていたのである。あまり覚えなかったようである。英語はロオマ字をやっと読めるくらいになって、いつのまにか、止めてしまった。

「I can speak」。

また、

前からの胸部の病気が、急に表面にあらわれて来たのであった。私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢復して来た。一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した。けれども私は伝染病患者として、世田谷区・経堂の内科病院に移された。Hは、絶えず私の傍に附いていた。ベエゼしてもならぬと、お医者に言われました、と笑って私に教えた。

「満願」。

結局、いろいろと10年間を絞り出していったら、八景以上のものが出てきてしまう。

太宰の妹と結婚する予定のT君の出征を見送る際の増上寺の山門。

「安心して行って来給え」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者という不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだことがあります、と言い切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮する事は無い。東京名所は、更に大きい声で、
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起したところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず最後の力になってやれると思った。

増上寺。

私も芝に住んでいたとき、御成門のあたりの公園に子どもを遊ばせていた。そのとき、よく増上寺の前を通っていた。そうか太宰も、この辺で、見送っていたのか、と懐かしく思った。

自分も東京八景、ちょっと考えてみたいと思った。

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