オッさんの日常

50歳になると、あの一歳二歳の違いに極度にこだわっていた思春期と異なり、だいたい前後6年くらいの幅で人を見るようになっていく。なぜなら、一歳二歳の差が、外見に現れづらくなっていくからだ。

若そうに見えても、私より上だったり、私より上に見えても、結構若かったり。若そうに見えるのに、話している内容はガッチリ昭和の価値観を疑いもしていない感じだったり、老けているのに、頭は柔らかそうで新しいモノを学ぶ意欲があったり。

見た目年齢だけではなく、精神年齢、頭脳年齢というのが人にはあるのかもしれない、ということを駅で人を観察しながら、ふと思った。

築地で働いていたとき、神楽坂で寿司屋をやっていた女将さんは、80を超えてもPCの操作を学びつつ、当時流行っていたペ・ヨンジュンのイベントに、当時としては早いネット予約をして行っていた。2024年になると、スマホの操作に慣れ過ぎて、PCでの操作ができない、という不思議な現象を見ることはあるが、まずは人から教わった通りに、あるいはマニュアル通りにやってみる、という作業を「素直に」行うのが肝要なようだ。

歳をとると、どうしても自己流にこだわり、「素直に」なれない。これは精神年齢の「老化」なんじゃあないか。働き方改革で、勤怠のシステムが変更されたりなんだりした会社は多いんじゃないかと思われるも、ウチはそういうのに遅れていて、いまさらドタバタやっているから、トラブルが多い。ただそれも、文章を見てやってくれよ、という要求を、文章が読めない(あるいは曲解する癖がある)ことで、できない!と騒ぎ出す、そういうことだったりする。

「できない!伝える方が悪い!」っていうのは、どんなカスハラだよ。と、さすがにため息を禁じ得ないのだ。だから国語でも契約書の読み方を教えましょう、即物的な文章の読解力を教えましょうと、なるのだろうけれど、それらは別に文芸作品でも、同じで、言語の外にも出ず、言語に何も投影しない、いわゆる「逐語的」な読みをすればいいだけだと思う。「逐語的」な読み方を契約書でやったら、寝る生徒は増えるんじゃないかなあ、と思うけれども、それはそれで時勢なのかとも思う。

文芸作品には文飾、文彩があるので、単なる逐語的読解をしづらい題材だと思うし、教えにくいとは思う。論説文でも、飛躍やレトリックやアイロニーの多い小林秀雄の批評とかは、中ボス程度の訓練にはなるけど、初級者には厳しいだろうと思う。だから契約書とかって話になって、それはそれで、会社や家を売買するような契約書なんかは面白いと思うけど、教える仕組みを作るのが大変そうだなあと思われる。

ローマン・ヤーコブソンは、文学の芸術性は、小説という言語行為における「美的アスペクト」だと言ってたけど(ウロ覚え)、そういうスパッと切り分けちゃうような態度ができるかどうかがキモなんじゃないかと思う。要するに、国語の教科書に載るような文章を、全部、言語コミュニケーションにおけるジャンル分けへと投げ込めるか、という感じで。

宣言、議論、契約、詩的行為、物語的行為、勧誘、議事録、日記…あらゆるコミュニケーションにおける言語行為の読解を試みよう、教えなきゃいけない、という危惧はわかる。ただ、それらは一方で、「国語」という、規範的側面の教育も担保できるのかなあ、と思わなくもない。

つまり、「国語」は、あらゆる言語行為の様相(アスペクト)を、論説、小説、古典、漢文を題材にして教えつつ、国家が規範とする言語水準はコレなんだ(美しい日本語でもなんでもいいが)、という規範的な側面も暗示的に伝えてきたわけで、それらを実践的なものに解体しちゃうと、文化的統合の側面が解体しちゃうんじゃないかなあ、と思う、ということです。

まあ、そんなことは言ってられないくらいに、リテラシーがダダ下がりしている危惧があるってことなのかもしれないけど。そんなことを考えたりした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?