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誰に向けて、なぜ書いているか

冒頭にアンカーする記事を書いてみよう、ということで、わざわざ時間を使って、何を誰に向けてなぜ書いているのか、について書いてみようと思う。

まず、誰に向けてなぜ書いているかというのは簡単だ。自分の子どもたちに向けて、子どもたちが大人になって、自分が亡くなっていて、父のことが知りたければ読んでほしいと思って書いている。要するに遺言や遺書の類というわけだ。

私の父はすでに80を超えていて、昔から自分の父母(私にとっての祖母)のことを書くといっていながら、まったく書くそぶりをみせずにここまで来てしまった。コロナのせいで最近、会えていないが、さすがにもう書く能力も意欲も減退していることだろう。ならば、私が聞き書きでもしなければな、と思うところがある。

とはいえ、直接聞き書きしても、記憶は同じところをぐるぐるまわるばかりで、おそらくはっきりしたことはわからないだろう。それはそれでもう仕方がないが、私はその轍を踏みたくはないので、せっかくだから私の父がやらなかったことを遺しておきたいと思って書いている。

何を遺すのか

子どもたちに向けて書いているのだから、素朴に父が一人の人間としてどんなことをしてきたのか。何を読んで、何を考えたのか、という至極素朴な事柄を遺しておきたい。

私は実際に、父の幼少期のことを断片的に聞いたことしかないし、ましてや、何を読んでどう感じ、それをどのように血肉にしていったのか、ということは言葉にすらなっていない。それはべつだん普通のことだし、さほど気にすることではないが、あかの他人という人でもない人ですら、生きた軌跡が伝わらない、という事実に少々驚き、それならばせめてテクストでも遺してあげようという気になったのだ。遺されても、すぐ削除してしまうかもしれないが、無駄な抵抗と自己満足としても、私にとっては有意味であろう。

今のところは飲んだお酒の話や、読んだ本の話、住んだことのある地域に関して、思い出せることを書いているだけだが、やったことのある仕事のことなども書いておければ、遺書としては大満足かもしれない。

時代の変化と遺すもの

48年。干支を4周してきて思ったことは、自分がいた時空間が、それとは気づかないように少しづつ変わってきて、いわば全とっかえされたように感じることだ。変わった部分は少しづつで、変わったものに自分の順応してしまっているから、環境が急に変わったようには感じない。けれども、確実に、10年前、20年前、30年前とは変わってしまっている。

私自身、老いて認知症になった義父母の面倒をみながら、徐々に昔のことを忘れ、にもかかわらず記憶は昔のことを豊饒に思い出して、今まで出会った人たちとあたかも幸せに暮らしているかのような錯覚をしながら、老いていくことになるのだろう。すでに、その兆候は出始めている。それが現実化する前に、私自身のことを子どもたちに遺言として書いておきたい。

これが、私がNoteを書いている意味である。

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