パッパルデッレ

50歳の太ったおじさん。ゴミ屋敷を片付けたい。料理やワイン。時々、本を読んだり美術鑑賞…

パッパルデッレ

50歳の太ったおじさん。ゴミ屋敷を片付けたい。料理やワイン。時々、本を読んだり美術鑑賞。自分が亡くなったあと、子どもたちが私を思い出しながら読んでほしい内容を書きます。ちょっとリアルは「感想」の中に。

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誰に向けて、なぜ書いているか

冒頭にアンカーする記事を書いてみよう、ということで、わざわざ時間を使って、何を誰に向けてなぜ書いているのか、について書いてみようと思う。 まず、誰に向けてなぜ書いているかというのは簡単だ。自分の子どもたちに向けて、子どもたちが大人になって、自分が亡くなっていて、父のことが知りたければ読んでほしいと思って書いている。要するに遺言や遺書の類というわけだ。 私の父はすでに80を超えていて、昔から自分の父母(私にとっての祖母)のことを書くといっていながら、まったく書くそぶりをみせ

    • 『ドライブイン探訪』についての感想

      『ドライブイン探訪』という本がある。著者の橋本倫史さんは、1982年生まれ。私より、8歳くらい年下。だとすると、この本の主題となっている「ドライブイン」に心底懐かしさを感じる世代に属してはいないと思う。 だからこそ、なのだろう。 「ドライブイン」があった時代を探して、平成年間にしぶとく生き残っていたドライブインを訪ね歩いた記録が本書に書かれている。 1974年生まれの私も、ドライブインに馴染みがあるとは言い難い。 記憶も定かではない頃、アメリカンダイナー風のドライブイ

      • 太宰治「東京八景」

        「思い出」もそうだけれども、太宰は今までのことを総覧的に語りなおそうとする作品をつくる。 「東京八景」もその一つだけど、「思い出」にあるような気どりやポーズはない。だから読みやすく、心に伝わる。 芸がない、といわれることもあるかもしれないけど、すでに人生がインパクトだらけなのだから、逆に余計な綺羅はいらないように思う。 * 二度目の結婚を経て、多少なりとも作品が世に出て、それなりに金銭にも余裕が出た太宰。多少のお金をもって東伊豆の先に宿をとって、そこで小説を書こうと出

        • 太宰治「走れメロス」

          言わずとしれた名作、「走れメロス」。 いまさらメロスに何を書くべきか悩む。 旅館に金が払えなくて、檀一雄を人質に、金をとってくると言ったまま帰ってこない太宰。壇が色々やって、井伏さんとこに来たら、囲碁を打っていて、おい!みたいなふうに壇が言ったら「待たせる身と待たされる身、どっちが辛いかね」とか言ったみたいなエピソードなんて耳タコだよね、という風情。 昔(体感的には最近)、前田塁もとい市川真人がなんか新書で走れメロスのことを書いていたっけな、と検索したらnoterの潮田

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          7本
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          久々に歯医者に行った話

          歯医者に行ったよ、俺。 何年ぶりだろう。 昔、歯がとてもいたくて、我慢できなくて、会社のすぐそばの歯医者に行ったら、その場で「神経抜こう!」ってなって、えーっと思っているうちに、「ハイ麻酔!」「ハイ行きますよ!」とブチブチ音がした。ただ、思ったほど痛くはなかった。 割とあっさり終わって、痛くなくなったので、そのおじいさんの先生に挨拶をして帰った。歯の神経抜いても、別に味はかわらないし、痛くないし、やってよかったなあ、とほんわかした気持ちになった。 しかし、数年後、同じ

          久々に歯医者に行った話

          「女生徒」と『有明淑の日記』

          久しぶりに歯医者に寄るために満員電車に乗ったら湿気と人いきれで気持ち悪くなってしまった。オッサンが、満員電車で気持ち悪くなっても、絵にならない。二日酔いですか?と言われる始末だろう。ただ、いかな鈍感なオッサンであっても、気象変化に影響は受けている気がする。鈍感だから、それを認めたくないだけだと思う。それは、男らしさの呪いなのかもしれない。 先日、太宰治の「女生徒」を読み、その元ネタとされているのが「有明淑の日記」であることを知った。どうやら、いわゆる本にはなっていない。ただ

          「女生徒」と『有明淑の日記』

          2024.05.15

          フネさん。思った以上に、司会が上手くない。そのために、会議の時間が爆伸びしている。今どき、こんな昭和な会議なんてあるのだろうか、と愚痴りたくなるほどの、長い長い会議であった。 フネさんは、良い人で、人の話をよく聞いてくれるが、その反面決断力に欠ける。これは私もそうなのだけれども、人に嫌われたくないので、どうしても自ら悪者になることは避けようとする。その結果、誰かが、決断を下すまで、話しを続けさせる。また、判断に誘導するような事前資料の配布や、根回しをしない。そのために、決断

          孝の孤独論(まで至らなかった) 〜齋藤孝の研究4〜

          久々にブックオフの大型店舗をパトロールしたら、客層が結構ヤバくて、高齢者の読書家のイメージが固定しないように、俺もちょっとおしゃれしよっ、と思わなくもない時間を過ごした。ただ、目当ての本を探し回っている時間は、まるでありし日のRPGのようで、懐かしさが胸を打ったような気がした。 もちろん探していたのは孝の本で、おそらくは先だっての読書日記によって孝文献が枯渇したので、それを仕入れようと出かけた。家と職場の往復以外に寄り道しない俺としては、寄り道させた孝に乾杯だよ、と1人ゴチ

          孝の孤独論(まで至らなかった) 〜齋藤孝の研究4〜

          2024.05.14

          太宰治の「駈込み訴え」を読んで、イスカリオテのユダ、って誰だっけ、という思いが沸いた。それで、類書を読んでみようと思った。 まずは、荒井献氏の『ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』のユダ』(講談社学術文庫)をKindleにて入手し、ぺらぺらとめくってみた。 2006年4月に新約外典『ユダの福音書』のコプト語本文が英訳と共に公表された、という(荒井 2007)。福音書っていったら、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四つだろうと。けれど、そこに「ユダの福音書」というのが

          孝の熱き時代 ~齋藤孝の研究3~

          皆さんは、私を齋藤孝の批判者だと読まれるかもしれない。確かに、なんだか揶揄めいた言葉を書きつけることもしばしばあるから、そう読まれることを拒否するつもりはない。けれど、私は初期の孝の熱き心を、高き志を知っている。今回は、2002年に第1刷が刊行された齋藤孝『読書力』(岩波新書)をもとに、孝のモチベーションについて書いていこうと思う。 このころの孝は、今のように、読者に優しく語り掛ける文体ではない。 実に、明確に、男性的に、「思いのたけ」が述べられている。現在の優し気な孝の

          孝の熱き時代 ~齋藤孝の研究3~

          オッさんの日常

          50歳になると、あの一歳二歳の違いに極度にこだわっていた思春期と異なり、だいたい前後6年くらいの幅で人を見るようになっていく。なぜなら、一歳二歳の差が、外見に現れづらくなっていくからだ。 若そうに見えても、私より上だったり、私より上に見えても、結構若かったり。若そうに見えるのに、話している内容はガッチリ昭和の価値観を疑いもしていない感じだったり、老けているのに、頭は柔らかそうで新しいモノを学ぶ意欲があったり。 見た目年齢だけではなく、精神年齢、頭脳年齢というのが人にはある

          オッさんの日常

          2024.05.13

          子どもたちが熱を出したので、おとなしく家にいた休日、とりあえずゴミ屋敷を少しづつ片付けて、自分のスタジオのようなものを作ることを夢見た。いや、ものをなくせばできるでしょ、と言われそうだが、モノを片付けるにあたって、どれが必要で、どれが必要でないか、ということを各所にお伺いを立てねばならず、それが億劫で今までやってこなかった。 今回古い保存用の食材は捨てる。こっそり捨てるということで、やや厚手の半透明のゴミ袋に味噌も何も全て突っ込んで、ゴミ捨て場に置いた。全てなくなっていた。

          太宰治のパラテクスト

          「パラテクスト」とは、確か、ジェラール・ジュネットか誰かの本で昔読んだけど、本文=テクストを包み込む、装丁、体裁、序文や解説、表紙、紙質などの部分を指す、ことだと思う。 ジュネットの本も、やたらと高値でAmazonでは取引されていて、いかがなものかと思った。『スイユ』とか、そういうタイトルの本だったかと思う。本文=テクストが書物という商品として流通する際の事態について、考究した本だったはずである。 太宰治の本をことあるごとにみていると、各社から様々な版が出され、図書館にも

          太宰治のパラテクスト

          太宰治「駈込み訴え」

          ユダの裏切りに至る心理的葛藤と決断を、太宰調の文体で書いた読ませる短編。 新潮文庫の『走れメロス』は、そういう意味では、前期後半・中期の代表作ばかりを入れようとした、短編集であるということができる。 左翼活動からの離脱と罪責感、心中未遂、パピナール中毒と回復、キリスト教のモチーフ、故郷・津軽への想い。こうした人生航路と作品が、お互いを映しあったり、拒絶しあったり。 「駈込み訴え」は、芥川龍之介への傾倒からか、先行作品を題材として、それを裁ち直す技量を示す太宰の面目躍如の

          太宰治「駈込み訴え」

          2024.05.09

          GWが過ぎて、忙しくしている。辞めてしまう人、あるいは辞めようとする人、に対処しながら、日々を過ごしている。私自身は辞めてもいいと思っている。辞めたとしても回るように、しておけばいいと思う。それを考えるのは、大変難しいことではあるのだが。 上の子のLINEでのやり取りを見せてもらったら、入学式で総代だった子が「黙れ、底辺!」と軽口でも言っていて、ビビった。言われた相手は、比較的そういう事柄を、受け流す、あるいは、全然動じていない感じだったので、喧嘩になったりはなかったのだけ

          太宰治「女生徒」

          有名な作品なのに、読んでこなかったことから、太宰に関する類書を読んでいたら、有明淑(ありあけしづ)という女性の日記をわりとそのまま使っている、ということを知った。じゃあ、その日記を読んでみたい、と思ったけれども、それは単行本にはなっていないようだった。 中原淳一のことが好きで、中原淳一関連の本については、おそらく相当数読んだと自負する私であるが、有明淑の日記の中には、ある意味で中原テイストとも呼べるべき何かが存在するように感じた。太宰の完全創作でないのであれば、淳一テイスト

          太宰治「女生徒」