徒然物語71 一滴

「元気ですか?」
 
そんなメールが送られてきたのは、社会人になって半年も経った、ある日のことだった。
 
高校卒業以来、一度も連絡を取っていない、あの娘。
遠巻きに眺めることしかできなかった、あの頃。
クラス会か何かで、連絡先を交換しただけ。
大学はどこへ行くのかさえ、聞くことはできなかった。
 
完全な僕の片思い。
 
大学生になったら忘れて、新生活の中でいろいろな出会いがあるはず。
 
なんて考えていた自分が馬鹿らしい。
 
内向的な僕に、そんな出会いなんてなかった。
あったのは淡々とした4年間だけで、気付いたら今に至るという訳だ。
 
そして、時々高校時代を思い出しては、「あの時、ああしていたら…」と在りもしない妄想に浸っているのだった。
 
 

そんなあの娘が、今目の前にいる。
 
恐る恐るメールを返したら、なんとなく返信が続いて、一度会ってみようという話になったのだ。
 
どうやらあの娘も地元で就職していたらしい。
場所は、ゆっくり話せる近くのファミレスになった。
 
それから数日間は夢心地で、普段着もしないジャケットを購入し、スニーカーも新調。
はやる気持ちを抑えながら、10分前に到着したのだった。
 
「ごめん、待った?久しぶりだね。」
 
あの娘は時間通りに現れた。
 
黒く長い髪を後ろに束ねて、化粧は控えめ。
当たり前だが、高校の時より俄然大人びて見えた。
けれども、僕に向けられる笑顔は、あの頃と少しも変わっていなかった。
 
そこから小一時間はお互いの近況とか、あいつは今どうしてるとか、そんなとりとめのない会話が続いた。
 
「ずっと昔から、好きでした。付き合ってもらえませんか?」
 
などと言えるはずもなく、
 
ほんとに夢みたいだ…
こんなに幸せな時間がいつまでも続いてくれないかな…
これきりじゃなくて、これからも会いたいな…
 
やっぱり僕はこの娘のことが…
 
そんなことを考えていた時だった。
 
「ところで、最近体調はどう?社会人になって、ストレスとかで不調になる人も多いみたいだよ。」
 
急に健康の話題になった。
聞くと、どうやらこの娘も社会人となり環境が変わったためか、体調不良に悩まされていたらしい。
 
「そんな時に、これと出会ったの。」
 
ピチョン
 
言うが早いか、醤油さしのようなものを取り出し、僕のコーヒーに一滴垂らしたのだ。
 
「これ、“不死健寿の水”って言って、毎日一滴混ぜて飲むだけで、万病が去って…」
「でね。こんなに効果絶大なのに月々なんと5,500円からで…」
 
彼女は“不死健寿の水”の効果について延々と説明していた。
あの頃とまるで変わらない笑顔、身振り、話し方…

けれども、僕には遠い国の言葉のように感じられた。
 
そういうことか…
 
長年の想いが、急速に冷めていく…
 
僕は、彼女がしきりに勧めるこのコーヒーを、いかに飲まずに立ち去るかばかりを考え始めていた。
 
さよなら、僕の初恋。

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