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漫画みたいな毎日「giftは遅れてやってくる。」

最初にお伝えしておきたいのは、これからここに書いていくことは、「幼稚園や保育園へ子どもを預けること」への批判云々ではない、ということ。
何事にも選択肢があり、人はそれぞれの人生の中で、それぞれの選択をしている。その選択に正解不正解も、良し悪しもないと思っている。それは単に、選択の違いでしかないのだから。今回は、〈私たち家族の選択〉の中のひとつの出来事を書き残しておきたいと思う。

我が家は、長男が2歳の時に、家族で通う幼稚園を選択し、移住してきた。
私たちが選んだ幼稚園は、親子で過ごすことで、子どもから「人間とは何か」を学ぼう、という園長の理念の元に創設された幼稚園である。感染症の拡大や、末娘の意思で、途中で長期的に休んだこともあったが、現在、13年目の幼稚園通いの真っ只中だ。

最近の二男との会話の中で、嬉しくもあり、気が引き締まることがあった。

「二男が幼稚園で過ごした時に、一番楽しかったことって何?」

特に他意もなく、なんとなく聞いてみた。

幼稚園では楽しいことが沢山ある。

自然に囲まれた環境での日々の遊びに加え、園で主催してくれる行事、誕生会や家族キャンプ、海や山への園外保育、そうめん流しに、クリスマス会のようなもの、年長組だけのお泊りキャンプなどなど。

彼は何が楽しかったのだろう?と答えを待っていると、

「色々楽しかったけど、一番楽しかったのはねぇ・・・お母さんと一緒に遊んだことだよ!」

満面の笑みで答える二男。

二男が幼稚園を卒園して4年。
長男が卒園してからは、既に8年が経っている。

家にいたら家事だのなんだのと、なかなかじっくりと子どもたちと過ごすことにだけ時間を使うことは難しい。だから、幼稚園に行っている数時間は、彼らとじっくりと過ごす為だけの時間だと思って通っていたし、今もそう思って子どもたちと通っている。

二男と過ごした幼稚園での日々。一日の中で数時間を共に過ごし、笑い、遊び、多くの時間と体験を共有してきたと私は感じている。

しかし、その一方で、子どもと一緒に通う幼稚園の生活を、暮らしの真ん中に置く生活は、体力的にも、精神的にも楽しいばかりではない。様々な価値観の集う場で、多くの人の間で過ごすことは、学びもあれば、自分と向き合う大変さも併せもっている。

毎日、朝の支度に追われ、バスの時間に合わせて走ったり、幼稚園が楽しいからと、子どもたちがなかなか帰ろうとせず、夕飯の支度もままならないことは日常茶飯時。家の中を思うように片付けることが出来ないこともあたりまえの毎日・・・。

幼稚園で過ごしている間にも、穏やかな時間ばかりではなく、時には二男が感情を爆発させ、その大きさと激しさに私が泣いたこともあった。

長男に私が付き合う間、二男の要求が通らないことも多々あっただろう。
そうこうしている内に、妹が生まれ、彼にじっくりと付き合いきれなかったことも多々あった。口には出さずとも、彼がそれを不満に思ったことも、たくさんあっただろう。私は、二男が受け入れてくれる優しさに甘えていたと思う。

二男本人はそんな素振りを見せるわけでも、不満を言うわけでもない。

でも、本当は寂しい思いをしていたかもしれないし、今もしているのかもしれない。私の対応は彼の求めるもの、タイミングと合っていないかもしれない。十分に満たすことは難しくても、できるだけのことをしているつもりだが、足りないと感じているかもしれない。

懸命にやっているつもりでも、そんな罪悪感に近いものを感じていた。

でも、彼の一言は、これまでのそんな私の気持ちを、やさしく全部包み込んでくれた気がした。

お母さんという存在は、子どもたちによって成り立っている。
子どもたちが居てくれるから、私は「お母さん」として存在していられる。

「母親」という存在は、社会的には、認められていない、何も成し遂げていない、評価されていないということに不満や不安、苛立ちを感じる女性も多いと耳にする。こんなに頑張っているのに、なんで認められないのだろう?と。

私たちは、人の間で暮らす存在だ。他者からの評価が自分を知る基準になることも否めない部分もある。でも、他者の評価の中で生きていたら、ずっとその中で評価されることだけに意味を見出し、見失うものがある気がするのだ。子育てを自分の評価と直結してしまったら、それはまた自分も子どもも苦しめる可能性が高いだろう・・・この事については、また別の機会に書けたらと思う。

私は、「母」という立場にしてもらって、今までのどんな仕事よりも、責任とやりがいを感じている。

他の誰にも代わることができない、「私だけ」の役割。

私は、今、「母」として、「子どもたちの育ちに関わることでしか学べないもの」を手にしていると思っている。未来を担う子どもたちが健やかに育つことこそが、自分を最大限成長させてくれることであり、家庭から始まる社会への貢献であり、世界への貢献へと繋がると確信している。


子育ては、幼稚園を卒園してからもずっと続く。なんなら幼稚園を卒園してからの方がずっと長い。家族で、親子で通う幼稚園は子どもの揺るがない土台を親子で作ることができる貴重な環境。植物で言えば、根っこを育む場所。それが今、通っている幼稚園だと私と夫は感じている。

今という毎日が慌ただしく過ぎていくけれど、目の前の子どもたちから目を逸らさない。楽しいだけではないからこそ、受け取れるものが大きい。私が子どもたちと共に過ごした時間は、何もしていない、何も成してない時間ではない。子どもたちの成長や発言から垣間見える姿が、そう思わせてくれるのだ。

「一番楽しかったのはね、お母さんと一緒に遊んだことだよ!」

あぁ、幼稚園に一緒に通っていて良かった!

二男の言葉は、私にとって大きな贈り物だった。

そして、この贈り物は、直ぐに受け取れるものではなく、時を経たからこそ受け取れる贈り物なのだ。時差があるのだ。スタッフにこのことを話したら、「貯金の利子みたいだよね。」と笑っていた。

大人の思惑とは、一番遠いところにある贈り物。

これこそが本当のサプライズかもしれない。

長男も14歳中学2年生になったが、臆面もなく、「自分は愛されていると思ってるよ。」と言う。「自分は、お父さんとお母さんに、大事にされている。」と。こちらが驚くほど、真っ直ぐにそう伝えてくれる。

長男とも二男とも、幼稚園での時間と体験を共有したこと、それによって、私と夫は、彼らからの「遅れてやってきたギフト」を受け取り、幼稚園が「親子で、家族で通う幼稚園」であることの意味を噛み締めている。

この言葉を胸に、現在も、末娘と幼稚園通いを継続中である。彼女が数年後、どんな風に、幼稚園で共に過ごした日々を感じていくのかが楽しみだ。

楽しみではあるが、私は、遅れてくるギフトを一切期待していない。
「gift」は神様からの贈り物であって、人為を介さないもの。
最初からギフトを期待しての子育てでは、人は育たないと思うから。

人の育ちには、時間がかかる。

そして手間がかかる。

だからこそ、面白い。


ヘッダーはみんなのフォトギャラリー・のだかおりさんのイラストをお借りしました♪ありがとうございました♪

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