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What's the story about Puran

「洗濯するけど一緒にやろうか!?」
サラの声がする。
「んー?」
「だから洗濯!あんたのも一緒にやろっか!?」
「あー、いい、いい、まだ着替えないと思う」と言ったあとにプーランは「ありがと、サラ」と付け加える。

プーランはさっきまでの空想を思い出す。
週に一度、わたしのお店にくるおじいちゃん。必ずバタークロワッサンとブラックコーヒーを注文して、ひと席だけあるテーブル席に座ってゆっくりクロワッサンを食べて、ゆっくりコーヒーを飲んで、ありがとうとおじぎをして帰ってく。

わたしはお皿とコーヒーカップを下げながら、いつもと同じ味でバタークロワッサンが焼けたかなと考える。
おじいちゃんはいつもきっかり同じ曜日の同じ時間にやってくる。だからわたしはその時間のちょっと前に「誕生日席」という札を席においておく。「予約あり」という意味なのだが、「予約席」と書くより「誕生日席」と書くのがいいと思う。

「プーラン!あたし出かける!」

またサラの声がする。
「あー、うん」と言った後に「いってらっしゃい」と付け加える。



ここは、あるアパートメントの三階。
アパートの名前はプラスターン・ヴィレという。ひとつの階に四部屋で四階建てだから十六部屋だけど、一階のひと部屋は管理人の編み婆が住んでいて、だから、十五部屋のアパート。他の階にも人はいるけど、同じ三階の人しかプーランは喋ったことがない。
そうそう、編み婆というのはいつも編み物をしているからみんな「編み婆」と呼んでいる。本名はなんていうんですか?プーランは一度聞いたことがある。編み婆はニコニコしてすごく長い名前を言ったけど、ぜんぜん覚えられなかった。
カレンダーを見た。今日はキンロウ日じゃないな、おやすみだ。仕事がある日のことをプーランはキンロウ日と言っている。サラが言っているのを聞いて使うようになった。サラは「仕事」を「仕事」と言うのが嫌らしい。
「どうして?」とプーランが聞くと、「洗濯だって掃除だって仕事じゃん、あたし一日中働いてるみたいで嫌」とサラは言った。なるほど。
ゆっくり起きてパジャマを着替え、藍色の薄手のカーディガンを羽織った。編み婆から買ったこのカーディガンをプーランは気にいってよく着ていた。冷蔵庫からミルクを出して鍋に注ぎ火を入れる。あったまったミルクをカップに注ぎ、少し蜂蜜を入れる。
窓を開ける。少し肌寒いきれいな風が部屋に入ってくる。



プーランのキンロウは辞書屋さんだ。なにせアパート代を編み婆に払わないといけないから、シゴトしないわけにはいかない。

辞書屋にはたくさんの言葉があふれかえっている。ひとつひとつの言葉がカードになっていて、「言葉室」の書庫におさめられている。プーランの仕事は書庫のカードの整理役。

今の辞書にのっている言葉、前はのってたけど役目を終えてもうのらなくなった言葉、次の辞書にのることが決まった言葉、次の辞書にのるかもしれない言葉。プーランはそれぞれの分類ごとにさらにアイウエオ順に分けて整え直していく。とにかくみんなが出してはほっぽり出してはほっぽるので、プーランはひたすらそれを直していく。単純なシゴトだけど、プーランはこのシゴトが嫌じゃない。毎月のお給料の半分は編み婆に払うアパート代。半分の半分はまいにちのお金、残りはちょきん。プーランはちょきんをしている。

「プーランは何でちゃんとちょきんしてんだ?」同じ三階のクリタによく聞かれる。何のちょきんかはうまく説明できない。

「うーん、しとかないと、な、と思って」

「なんだそれは!?よく分からない答えだぞ!」くっきり喋る男の子のクリタはそう言うけれど、プーランはうまく説明できない。

プーランはちょきんをしている。

たぶんそれは空想の世界を現実の世界にもってくるために。

わたしはまっしろのワンピースを着て砂浜ですわっている。
それはよく晴れた昼下がりで、わたしはだまって波の音をきいている。そこにはわたししかいない。わたしのあたまは何にもこんがらがってなく、すっきりしている。

わたしはどこからきてどこにいくのだろう。そう思った次に、きっとここに来たかったのだろう。そう思った。

と、突然、空に雨雲が張りはじめ、どんどん薄暗くなっていく。わたしは不安になる。だめ、わたしのちょきんをもっていかないで。わたしは困った顔になる。

そらに大きな時計が浮かぶ。時計の針が動きそう。だめ!わたしはひっしになってその針を押しもどす。うーーーーん、いっしょうけんめい針を押しもどす。
おじいちゃん、クロワッサンのおじいちゃん、助けて!
おじいちゃんがそっとわたしの肩にふれ、続いて時計の針を静かにさすった。時計はとまった。

おじいちゃん。

おじいちゃんの小さな目は、「うん、そうか」と見ていた。たぶんわたしの時間のネジを。

そんな時計の空想のあと、プーランは思った。そういえば時間が盗まれるってお話しがあったなぁ。本の名前を思い出そうとしているとサラの声がした。

「プーラン、モモ食べる?あたしの部屋来なよ」
「んー?」
「あたしの部屋!」
「あー、ん、今行くー」
プーランは藍色のカーディガンを羽織って大豆チップスをもって斜め向かいのサラの部屋へ移った。



サラはプーランよりひとつ上の女の子。そしてプーランより一年前からプラスターン・ヴィレに住んでいる。なんでもてきぱきとしていて、おせっかいと言えばおせっかいだけど、プーランはサラが好きだ。プーランがぼんやりしている時は、「ん」みたいな声を出してほっといてくれるから。そのへん、クリタはそうもいかない。プーランがなにを考えているかしつこく聞いてくる。たぶん、もやもやがきらいなんだ、クリタは。でもプーランが食堂でもたもたして階の違う子に文句を言われるといつも助けてくれる。「おめーがプーラン待てばいいんだ!プーランはゆっくりだ!」と。だからプーランはクリタが嫌じゃない。

プラスターンは夕食だけは編み婆が大鍋料理で何かしら毎日作ってくれる。シチューとか野菜とお肉たっぷりの炒めものとか。それは自由に食べていいことになっている。プーランは編み婆の料理が好きだ。

部屋のせまいキッチン、サラは果物ナイフでモモを切ってお皿に取り分けてくれている。プーランはサラの足をみる。つま先立ち。サラはバレリーナをめざしている。だからいつも、部屋でもこうやって練習している。

「はい、召し上がれ」
「ありがと」

わたしたちはモモをフォークで食べる。甘い。プーランはおいしいと言う間もなくむしゃむしゃ食べる。サラはそれを楽しそうに見てる。モモを食べ終わるとふたりで大豆チップスを食べ始めた。

「こんどオーディションがあるんだ」
「おーでぃしょん?」
「そ、大きな舞台に出るための、試験みたいなやつ」
「受けるの?」
「おうよ!」
「すごいね、サラ」
「まだ受かってないよ」
「ん、でもすごい」
「タイニーダンサーなんて呼ばせない、あたしはバレリーナ!」
「うん」
「辞書屋はどう、だいじょうぶ?」
「うん、楽しい」

そもそも、辞書屋の仕事もサラがプーランのために見つけてきてくれた。

「そっか」
「うん」

大豆チップスを食べながらこうしてサラと話していると、プーランは何かいつも自分がおいていかれるような気になって、ついついサラの服のどこかをつかんでる。サラは気にしない顔をしてる。

「そのカーディガン、編み婆から?」
「そう」
「いいね、あたしもあったかいの買おうかな、そろそろ朝市だもんね」

「朝市」というのは、二ヶ月の一度、編み婆が自分で作った服や小物をプラスターンの中庭で売るフリーマーケットのこと。
プーランはまだサラの服をつかんでいた。



プーランは自分の部屋にもどると窓をあけて、くぐもった空気をいれかえた。夜風が入ってくる。肌寒さは頭を少しすっきりさせる。
コンコン。
ドアをたたく音がして開けるとネルがいた。
「ネル、こんばんは、どうしたの?」
ネルは両手でまるい輪っかをつくってプーランをじっと見た。ネルはおはなしができないからこうして手ぶりで気持ちを伝える。
「あー、パンね」
プーランが言うとネルはニコニコ笑う。プーランはたくさん作っておいたバターロールをふたつ袋に入れてネルにわたした。

「おやすみ、ネル」

プーランより頭ひとつ小さいネルはおやすみと言うかわりにプーランにぎゅっと抱きつき、それからとなりの自分の部屋にもどっていった。プーランはベッドに横になり天井を見上げて目をとじる。空想の中でネルはしゃべっている。

焼けた?
うん。

プーランが出来上がったバターロールをオーブンから出すと、ネルはトングでひとつずつショーケースに並べていく。

終わったよ。
うん、ありがとう。

焼き立てのいい匂いがして、ネルはほほえむ。

ねぇプーラン
なに?
どこにも行かないよね?ずっとここにいるよね?
目を開ける。プーランは思った。大人にならないと。



編み婆の「朝市」は2ヶ月に一度くらい、天気のよい日にプラスターンの庭でやる編み婆の手作り編み物のマーケット。編み物だけじゃなく、ネックレスとかコースターとか編み婆の手作り品もあって、プラスターンの住み人はセーターやら小物やら、なにやらを買っていく。プーランがいくと、もうけっこうのお客さん(という名の同じアパートメントの住人)がいてにぎわっていた。

そろそろ冬だし、プーランは明るい色のセーターがほしいと思った。

品を眺めていると黄色、というか萌黄のきれいな色のあったかそうなセーターがあって、プーランはすぐにこれがほしい!と思った。でもそのセーターには「売約済み」と札がついていた。プーランはあきらめきれずしばらく眺めていたけど、しかたないと思って、部屋に戻った。明日は辞書屋でキンロウの日だ。プーランはじぶんのちょきんを数えた。せいかつ用のお金をセーターのための少し残しておいたのだけど...プーランは少し悲しい気持ちになった。

「プーラン、あとでわたしの部屋においで」

部屋の外で編み婆の声がした。

「あ、うん、はい!」

プーランが編み婆の部屋をノックし、中に入ると、編み婆はさっきの萌黄色のセーターをプーランに渡した。

「え...」
「このセーターはプーランが気にいると思ってとっといたのよ」編み婆は言った。
プーランはとびあがるほどうれしい気持ちになって「ありがとう!とってもうれしい!」と言った。
翌朝、編み婆にセーター代を渡すと、編み婆はすこしの間プーランをみつめて「ちょきんはたまったかい?」ときいた。
プーランはへんじにこまって、すこしほほえみながら首をななめにかたむけて、へんじの代わりに「行ってきます」と言った。
編み婆はゆっくりうなずいた。

辞書屋の「言葉室」でプーランは今日もカードの整理をしている。

アイウエオ順に言葉を整理していると、なぜだか自分のあたまの中もせいとんされていくようで、この作業はプーランは好きなのだけと、好きだけどいつもこわい思いもした。この「ことばのうず」に自分のじんせいそのものがまぎれこんでしまうのではないか、と思うからだ。

所長さんが部屋にやってきて、「プーランこれお願い」と言って白いかごをおいていった。白いかごに入ったカードは役目を終えてもう辞書にのらなくなった言葉たち。

プーランはかごのカードを書庫にしまいはじめようとしていちばん上にあったカードが目に入ってとまった。

いめ【夢】(ゆめ)の上代語

なぜだかとてもかなしくなって、プーランは泣きだした。その言葉がすてられてしまうかなしさではなくて、なにか、わたしはずっとここで動けないんだと、そう強く思ってしまったからだった。

かなしい気持ちをひきずってプラスターンに戻ると、クリタと編み婆が話していた。

クリタはアパートを出ていく。

「旅にでるんだ。ずっと考えてた。このせかいにはここ以外にたくさんの場所があるんだぜ、おれはそれが見たいんだ」

プーランはしずかに、いきようようと話すクリタを見ていた。たとえることがむずかしい、ことばにすることがむずかしい、プーランは胸にこみあがるあせりや不安やかなしみを自分でどうすることもできずにいる。
「でもなプーラン、プーランがだれかにいじめられてたらおれは助けにくるぞ!」クリタはそう言った。
プーランは少しの笑みをうかべてうなずくのがせいいっぱい。
食堂にひとり座る。

空想。

プーラン!
クリタがおおごえを出しながら走ってくる。
プーランはタスキをうけとり走り出す。
自分でもおどろくくらいすごいペースで走る。
ひとり、またひとりと追い越し、ゴールが見えてくる。
まだ力が出てくる。
ペースはさらに上がる。
そして一位でゴールテープを切る。
おおきな歓声がわたしを包む。
おおきな拍手がわたしを包む。

気がつくとプーランは少し涙がこぼれてた。いつのまにかとなりにネルが座っている。心配そうにプーランを見ている。プーランはネルの肩に手を回し抱き寄せる。ネルの温みが体に伝播する。

生きてく。プーランはおなかに力を込める。

わたしはお店でパンを焼いている。
いつもの時間におじいちゃんが来る。
わたしは「誕生日席」の札をとり、おじいちゃんにどうぞ、と言う。
おじいちゃんは一、二回うなづき、(いつもの)注文をする。わたしはバタークロワッサンとブラックコーヒーをテーブルにおく。おじいちゃんはいつものとおりゆっくり食べ終わると、ありがとうと言ってお店を出る。でも実際にはありがとうとは言わず、少し笑って頭をさげるだけ。わたしはおじいちゃんの声を聞いたことがない。でも、おじいちゃんの温みはなんでだか昔から知っている気がする。

「プーラン!」
空想が終わる。
サラがドアをたたいている。ドアを開けるとサラはプーランの両肩をつかんだ。

「オーディションに受かった!大きな舞台よ、やるわ!やっちゃる!」
「サラ~!すごい!」

しばらく部屋でふたりで話してから、プーランは言った。

「サラ、ここを出るんだよね」
サラは涙目になってうつむく。
「わたし、大丈夫だよ」プーランは言う。
サラはプーランを抱きしめる。
プーランの体の中で舵が動き出す。
負けない。わたしはわたしに負けない。
未来が動き出す。



夜、プーランはお湯をわかし、紅茶をいれた。

窓をあける。夜風が部屋の中の紅茶の匂いをやさしく混ぜて、プーランの顔のまわりを一周する。

どこまでが思いちがいで、どこまでがほんとうの世界なんだろう。

いつもプーランが思っていた変なぎもんは、グリグリと音をたてながらほどけようとしている。

壁にかざってあるエルサ・ベスコフの絵に目をやる。花に囲まれて人々が行進するこの絵は、プーランが住む部屋の住人が変わってもずっと引きつがれ壁にあるのだった。なんとなく壁のその絵に手をやり、額をもって壁からおろすと少しほこりがまった。裏返し、額の裏側を見て手がとまる。

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302号室
1970.6.1 Lyla
1978.9.30 Jonas
1985.2.25 Emi
1990.5.1 Busuka
1998.3.10 JIJI
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前の住人たちがこの部屋を出た日と名前みたいだ。しばらく眺めたあと、絵を壁にもどす。胸がどきどきする。頭の中でザーザーと音がする。何かが交差している。絵の向こうの新しい絵が、少しずつ輪郭をみせはじめる。

空想。

夕方、わたしは洗った食器をふいて棚にもどし、カウンターやテーブルをきれいにふき、
お店の外にでてドアの鍵を閉めようとする。
でも鍵をもっていないことに気付く。
お店の窓にうつるじぶんを見る。
肩まである栗色の髪。
編み婆の萌黄色のセーターに白いスカート。
これがわたし。
これがわたしなんだ。
わたしの心の中にに強いものが形をおびてゆく。
いつのまにかクロワッサンのおじいちゃんがとなりにいる。
おじいちゃんはゆっくり手を差し出す。
わたしは手をのばす。
金色の鍵が渡される。
おじいちゃんはやさしく微笑んでから、向きをかえ歩き出す。
わたしはその後ろ姿をじっと見つめる。
一度だけ、おじいちゃんは振り返る。
おじいちゃんの顔が茜色の夕焼けの後光に照らされて、ある面影を巻き戻す。

「ネル...」

おじいちゃんは微笑んで、また歩き出す。
そっか、クロワッサンのおじいちゃんはネルだったのね。
ありがとう、ネル。
わたしは金色の鍵を握りしめ目を閉じる。

空想からさめたあと、プーランの手の中には金色の鍵が残っていた。
空想の世界とほんとうの世界が、プーランの体をまとうように静かにおりかさなってゆく。



次の日、わたしは辞書屋のキンロウに向かい、いつもどおりテキパキとカードを仕分けする。やり残しがないように、いつもよりテキパキと整理する。言葉室の書庫に整然とカードをおさめ、はじからてんけんをする。役割を終えた言葉には、おつかれさまと声をかけ、あたらしく辞書にのる言葉には、よろしくねと声をかける。

夕方の時報がなる。
「プーラン、時間よ、あがっていいわ、おつかれさま」
所長のナナがプーランに声をかける。
「あの!」
「へ?なに?」
「所長さん、お話が...」
所長のナナはプーランのまっすぐなまなざしを数秒見つめ、「所長室へどうぞ」と言う。所長室に入ると、ナナはプーランに「座って」と言った。ソファーにすわり向かい合う。

「お話しって?」
「はい」
「どうしたの?」
「わたし、ごめんなさい、ここの仕事をやめてもいいですか?」

ナナは少しの間プーランを見つめていた。ナナに見つめられたプーランは涙がでかかったけど、泣いたらぜんぶがくずれてしまうから、ぐっと手に力をいれる。

「やめるのにはジヒョウがいるのよ」
「ジヒョウ?」
「そう、ジヒョウ」
ナナはクリーム色の紙をもってきて、プーランの前においた。
「この紙に、やめる理由と名前を書いてくれる?」
プーランは困って少しの間止まっていたが、ペンをもってゆっくりと字を書き始めた。
書き終えるとプーランはナナにジヒョウをていしゅつした。

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ほんとうの世界でいきるために、ここのしごとをやめさせてください。
プーラン
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ナナはいとおしそうにプーランのジヒョウをじっと眺めてから、
「しかたないわね、こまったなぁ、かわりをさがさないとね」と言って笑った。
プーランはポケットの中に手を入れ、金色の鍵を握りしめた。





アパートに戻ると、外で編み婆が待っていた。
プーランは編み婆の前で止まる。
編み婆は言う。
「鍵は手に入ったのかい」
「はい」プーランは答える。

「プラスターンね」編み婆は言った。
「なに?」
「出発って意味よ、ヒンディー語の言葉」
「ん」プーランは言葉がみつけられない。
「みんなここにずっといちゃいけない。いつか出発するのよ。だからここの名前はプラスターン・ヴィレ」
「あー」プーランは言った。「あー」としか言えなかったけど、とてもいろんなことがその時に合わさって、やっとやっと分かった気分になった。そして、もうここに、プラスターン・ヴィレに来てはいけないということも分かった。

「絵の裏に書いておいで」と編み婆は言う。
「はい」プーランは部屋にいき、花の絵が描かれた額を壁からおろし、

2004.10.31 Puran と書き、壁に戻した。

アパートの外に出て、待っていた編み婆に最後の家賃を渡す。プーランは一度深呼吸をして気持ちを整えた。鼻がツンとして涙が胸から込み上げる。
泣かないで言わないと。

プーランは言う。

「お世話になりました」

編み婆はやさしくほほえむ。

「プーラン、ふゆはあったかくするのよ」

プーランは編み婆に抱きついた。何も言葉は見つけられないけど、この現実を、この空想を、一度しっかり抱きしめておきたかった。編み婆はプーランの髪をなでる。目を閉じながらぬくもりを感じる。このままねてしまいそう。でもねちゃいけない。わたしは見るんだ、これからはじまるものをひとつものこさず。

ゆっくり編み婆から離れ、目を開けると、そこにはもうプラスターン・ヴィレはなく、編み婆もいなかった。
そのかわりに小さな小さなお店があった。

プーランは笑う。頭の中はもうなんにもこんがらがっていなかった。
風がふいて髪をゆらす。

気のせいか風と一緒にバタークロワッサンの匂いがする。
明日の匂いがする。

(終)

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