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栞さんのブランニューデイズ(前編)

出勤して最初の仕事は夜間にポストに投げ込まれた本の整理だ。
10冊ほどの単行本や雑誌を抱えて机に置き、本の中に挟まったものや汚れがないかをチェックする。

ん。

新しめの単行本をめくろうとすると小口の部分にコーヒーをこぼしたような汚れがあった。すかさずカバーのそでを見る。

はぁ〜。私は溜息をつく。【汚れあり】のシールは貼っていなかった。この貸出期間中についた汚れだ。後で借り主に電話をしないといけない。
市立図書館の司書として嘱託採用されて半年以上経ったけど、この仕事はいつまでも慣れない。気が重い。

ふぅ。気を取り直して他の本を配架し開館準備に入る。
予約リクエストの確認、返却期間を過ぎた本のチェック、検索PCの準備など開館前も仕事が多い。
今日は館長が公休の日だ。

こんな日に限って...

たいてい「本の汚れ」の確認電話をするとキレる相手が多い。
逆ギレですね、とも言えないので対応に疲弊する。
館長がいれば代わってもらえるし、「館長を出せ」という利用者も多い。

頭の中でぐるぐると考えながら開館直前にトイレにいく。
鏡で自分の姿を見る。
われながらぱっとしない黒髪のメガネ女子。

私は右に左に顔を向け、一応自分の顔を確認する。いつもどおりの私だ。

10時。開館。

嫌なことは早く終わらせてしまおう。
汚れた本を昨日まで借りていた利用者の連絡先を検索し、私は電話機をとった。

電話のコール音を聞きながらデータベース画面に映る相手の名前を確認する。

遠山 登

(とおやま、とおやま..)と頭で繰り返しながら待つが相手は出ず、留守電にも切り替わらない。
私は諦めて電話を切った。重い心を引きずるのは嫌なものだ。

図書館にはパラパラと来館者が入り始めた。

「おはようございます」

図書館職員はあまり元気よく挨拶をしてはいけない。静かな場所であるイメージを崩してはいけないからだ。入職したての頃、緊張して大きな声で来館者に挨拶していると館長に「都築さん、もうちょっと落ち着いた声で!」と指導された。
ここは図書館。適度な静寂、整然と並ぶ書棚、そこに居るぱっとしない私は存在感を押し殺して淡々粛々と業務をこなす。

11:30。
電話音が鳴る。

「はい、瑞名市立図書館 南分館 都築でございます」
「あー、先ほど着信入ってて、遠山といいますけどー」
「あ、あ!は、はい!」
「電話いただきました?」
「は、はい!」
「本なら昨日ポストに返却しておきました」
「え、っと、はい、お電話ありがとうございます。その本の件で」
「ほ」
「あの、返却いただきました本に少し汚れがございまして、あの、貸出の時から汚れはありましたでしょう..か?」
「汚れ、ですか」
「汚れ、です」
「どんな?」
「あ、あの、本を閉じた時にパラパラ開く部分に茶色い染みのような汚れなんですが..」
「うーん」
だいたいはこの辺で相手は逆ギレし始める。私は身構える。
「ちょっと、分からないですね」
「そ、そうですか、では、お貸出しする前から付いていたのかもしれませんね、申しわけ..」
「いや、僕が汚してしまったのかもしれません」
「あ、いや、こちらの確認ミスということもありますので!」
「見に行きます」
「は?」
「今日は仕事で行かれないので、明日の10時に」
「え?来られるんですか」
「では、明日の10時に」
「は」
そこで電話は終わった。

レ、レアケースだ。面倒な人につかまる予感で頭の中はいっぱい。
私の心はどんより曇り空。
私はぱっとしない&どんよりした図書館司書。都築 栞。

「では、明日の10時に」

帰宅した私は声を低くして、遠山登のモノ真似をしてみた。
はぁ~クレームかぁ。溜息が出る。
そもそもまだ1年目の私が対応しないといけないのかと思いつつも先輩はよほどのハードクレームじゃない限り援護してくれない。
ようやく終わった後に「大変だったね~、栞ちゃん!」などと言ってくるのだ。
明日の10時。これがデートの約束ならどんなに素敵だっただろうに、クレーム対応とは...。
デートの約束なんてそもそもまともにしたことがない私。何だか一人暮らしの部屋がいつも以上に寂しい。
地味で消極的な私は恋愛とは無縁の人生レールに乗りつつあった。

お湯を沸かしてハーブティーを選ぶ。
私はいくつかの種類のハーブティーを揃えていて気分で飲み分けているのだが、今日は安眠しないといけない。レモンバーム。

ひと口飲むと少し落ち着いた。

明日の10時。これがデートの約束ならどんなに素敵だっただろう。
私はもう一度そんなことを思う。

大学3年生の頃、たった1ケ月、1ケ月だけ恋人がいたことがあった。
どちらからともなく、何となくの告白を経て。
20㎝も背の高い彼に抱きしめられた私は彼のPコートのボタンのところに顔があたり、頬に思いっきりボタンが食い込んだ。
でもその頬の痛みが、私にとっての恋愛だった。

私はその痛みを思い出す。
冬の寒い夜が更けていく。
私はメガネを外してベッドにもぐりこむ。

結局あまり眠れなかった。
私は卵スープとクロワッサンを喉に流し込み、車に乗り込み職場に向かう。

もうどうにでもなれ..。今日は定時で上がって美味しいものでも食べよう。

いつもどおり開館準備をして、汚れのついた本を用意して待つ。

10時。開館。

自動ドアが開き、開館と同時に男性が入ってくる。

(来た)

私はびっと姿勢を正す。何回か見たことがある。最近たまに来始めた利用者の男性だ。

「ツヅキさん」
「はい、都築です」
「遠山です」
「わざわざご来館いただきまして申し訳ありません。どうぞ」
私は席へ促す。
カウンターを挟んで向かい合う。
歳は私と変わらなそうな20代。電話の声よりよっぽど若い。
「汚れた本というのは..」
「こちらです」
私は本を手渡し、汚れの部分を指で示す。
遠山登は汚れの部分をまじまじと眺めてじっと黙っている。

この無言の時間が地獄だ。私はゴクリと唾を飲み込む。

「あ、あの..」
私が切り出そうとすると、
「弁償します」
「へ?」
「弁償します。最初から汚れていたら何かしらシールが貼ってありますよね」
「は、はい..汚れがあるものは【汚れあり】と...」
「ということは私が汚した可能性があるということで、弁償します」
「で、でも、汚された記憶はないんですよね?」
「記憶はありません。ですが、記憶というものはひどく不確かなものですから」
(村上春樹かよ..)と思いながら、
「ご記憶がないのであれば弁償は結構です。昨日も申し上げましたが、こちらの確認ミスということもありますので」
「ツヅキさんが確認ミスをするのですか?」
「へ?」
「よく確認ミスを?」
「い、いえ、私だけがチェックするわけではないですが、ミスがないようには心がけております..」
「あなたは真面目そうだからミスしないでしょう」
「真面目そう..ですか..」
「はい、何と言うか、ぱっとしないというか」
(ぐ..はっきり言うヤツ..)
「もやっとしてるというか」
(ひ、ひどい..)

何度か押し問答を続け、弁償はなし、で落ち着いた。

遠山登はそのまま帰るかと思ったら館内の奥の本棚に歩いていった。


ひとまずクレームにならなかったことに安堵しながら、私はチラチラと登を気にしながら通常業務に戻った。

数10分経ったあと、登が貸出カウンターにやってきた。
私は事務的に貸出カードをスキャンする。
【フランス料理、ここが決め手!】
【ジェンダー社会に生きる】
彼が選んだ本はその2冊。
何とも不思議な組み合わせだが、図書館で借りる本の組み合わせは得てして脈略がないので、気にはならない。
「お願いします」
彼は礼儀正しく言った。
「かしこまりました」
私は事務的に応じる。
去り際、彼はすこしモジっとしながら、
「汚さないようにします」
と言った。
「あ、いえ..」
返答に困りながらも、登の言葉には好感が持てた。

帰り道、車を運転しながら、私は登とのやり取りを思い返していた。
「もやっとしてる」
まったくもって誉め言葉でもなんでもないが、私は私を形容してもらえたことになぜか嬉しい気持ちがあった。

せいいっぱ~い、運命に抵抗~~♪

ラジオからBump of Chickenが流れている。
学生の頃、よく聴いていた曲だ。

運命に抵抗どころか、日々を何でもなく生きていくことに慣れてしまった私には手厳しい指摘のように聞こえる。

セイリンデイ~、舵を取れ~♪
Bump of Chickenの曲が続く。

私はもやもやしたまま、走り慣れた帰路を進む。

夜、私はカモミールティーを飲みながら自分の心の中を泳ぐ。
いつも一歩踏み出すと傷つく。
踏み出さないと、それはそれで私はこうしてもやっとする。

もやっとした図書館司書。
逆にあか抜けた図書館司書も見たことないのだけど。

遠山さんのことをもっと知りたい。
心の中は明らかなのに、頭の奥はすっきりしない。
いつもこんな感じだ。

遅くまで私はそうしてぼんやりとしていた。

毎週土曜日の午前10時、きまって登が来館するようになった。
登が入ってきた時の私の動揺に気付いたのか、先輩司書の倉沢さんと館長の五島さんは私を見てニヤニヤしている。
「な、何か?」
と聞くと、
倉沢さんは耳元で「タイミングが大事よ!タイミング!」と言った。
は?と顔を赤らめながら言うと倉沢さんは深く頷いた。

なんか、バレてる...。

登は決まってフランス料理関連の本を借りていった。
フランス料理の名店を紹介する本もあった。
私は登の生活を想像する。
もしかして恋人がいて、デートのお店を探してるのかな。
いや、それくらいスマホでやるよな。
全く仕事に集中できなくなってきた。

登がカウンターにやってくる。
カウンター内がザザッとフォーメーションを変え、栞が貸出カウンターに躍り出る。

ピピ。
本を手際よくスキャンする。
「2月24日までの返却になります」
私が本を差し出すと、登は突然言った。
「ツヅキさんは、何と言うか、野暮ったい感じですね」
「な...やぼっ..」
私は分かった。
登は全く悪意なく、思いついた言葉を言っているだけなのだ。
良く言えば純粋。
悪く言えば空気が読めない。
「野暮ったい..です..よね、でもどう直せばいいのか..」
私が言うと、登は言った。
「直す?そのままがいいですよ」
「そのまま?」
「はい、そのままがいいです」

(こ...告白っぽいセリフ...)

私はあんぐりを口を開けたまま動けなかった。
ぐいっと後ろを振り返ると倉沢さんもあんぐりと口を開けていた。

家に帰っても私の心はここにあらず状態。
「そのままがいいです」
声を低くして登のモノ真似をしてみる。
高揚が体の中を遊泳する。鼓動が早くなる。

(続く)

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