今夜、ファミレスの片隅で。
22時。
もうかれこれ1時間も彼は私に喋り続けているのよ。
私はうんうんと相槌をうちながら聞いているけど半分以上は頭に入ってないわ。
どうしてこの人はこんなに喋り続けられるのかしら?
たまに「そうなんだ」とか「フーン」とか言うと話を聞いている風に見えるでしょ?
だからそんな片言の言葉を織り交ぜてるの。もちろん、半分以上、聞いてないけどさ。
「どう思う?」
ふいに彼はカウンターを入れてきた。
あ、まずい。
聞いてなかった。
どんな話の展開だったっけ?まぁどうでもいいんだけどさ、一応うまく合わせないとね。
「うーん..」
彼は期待にあふれた顔で私を見る。うげっ、その期待感、嫌なのよね。
「まぁ、どれが正解というわけでもないと思うけど...」
と私が言うと、
「そうなんだよ!正解がないから難しいんだけどさ!」
我ながら見事な返し。テンションが上がる彼を眺める。不思議な生き物を見るような、その時の私の目はそんな目だったに違いないよ。
「でもさ、モノには限度があるんだよな。使えないヤツは使えないんだから」
どうやら仕事がイマイチな部下の話みたい。
彼は喋り続ける。
私は少しささくれだって荒んできた自分の心の揺れに気付く。
正直言ってさっさと切り上げて帰りたかったけど、おもしろくもない彼の話に水を差してやりたいって、ちょっと思っちゃったのよね。
「ちょっと、お酒飲んでいい?」
彼は、一瞬驚いた表情をしたけど、「あぁ、いいけど」と言った。
赤ワインをデキャンタで注文してお互いのグラスに注ぐ。
私はひと口でけっこうな量のワインを喉に押し込む。
ぎゅっと喉からお腹が熱くなる。
「で、あなたはその部下ちゃんをどうしたいわけ?」
彼は一瞬面くらった顔をしたわ。だっていつも私は聞き役なんだもの。そんなこと聞かれると思わなかったんじゃないかしら。
「どうってさ、さっさと異動してほしいよ、使い物にならないんだから」
「あなたが育てればいいんじゃない?上司なんだから」
「育てる?いやぁ、ありゃ伸びないね、無駄無駄。そもそも伸びる社員っていうのは素地があるんだ。それが見えるんだよ、俺には」
何で私はこんなにイライラするのかしら。そう思ったらこんなこと言ってたわ。
「そもそもさ、”人を使う”っていう言い方がどうかと思うけど」
彼は一瞬考え込んだけど、また言い返してきたわ。
「普通だぜ、人を使うのが会社、使われるのが社員、使われる人間を目指すのも普通なんだよ」
私は鼻からふっと息を吐いた。
「何だよ、特に男はそうなんだよ」
「ジェンダー」私は思わず言った。
彼は露骨に嫌な顔をしたわ。そう言われると一回黙るしかないものね。そこは私も少し反省。でもちょっと黙ってほしかったのよ。
少し気まずい雰囲気を和らげたいのか、彼は私のグラスにワインを注いだ。
私はまたぎゅっとワインを喉に押し込む。
私は次の言葉を探したんだけど、何だか何を言っても無駄な気がしてさ、黙っちゃった。
「今日はどうしたんだよ」
「別に」
「いつもと違うぜ、何かあったの?」
「何もないよ」
「いつももっと落ち着いて俺の話聞いてくれるじゃん」
参ったね。これには参ったわ。ついつい言っちゃった。
「じゃああなたは私の話、ちゃんと聞いてるの!?」
「おい、ほんとにおかしいぜ」
「何がよ!」
「みっともないからやめろよ、ファミレスだぜここ」
「みっともない...」
はぁ、私はみっともないのか。
何だか悲しくなっちゃった。
でもまぁ、言われてみればみっともないのかも、なんて思ったら何だかどうでもよくなってきちゃった。
彼は煙草に火を点ける。
彼が吐き出す煙が宇宙に投げ出されてく。
その煙はゆらゆらと空中を彷徨いながら、危うげな私を探してる。
私は言う。
「一本くれる?」
今度は本気でびっくりしたみたい。
「吸うの!?」
「昔ね」
「そんなこと初めて聞いたな」
「なに?」
「煙草吸ってたって初めて聞いたよ」
溜息が出ちゃった。
「あのさ、私はあなたに生い立ちや過去の恋愛遍歴や煙草をいつから吸っていつやめたかまで全部話さないといけないわけ??」
「そんなこと言ってないよ」
彼は困ったなって顔をしながら、ライターをのせて私の前にすっと煙草を差し出す。
私は一本煙草を取り出し、カチッとライターで火を点ける。
久しぶりに煙草の煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
少し視界が揺れる。
煙草ってさ、昔のことばかり思い出させるのよね。今のことなんてこれっぽっちも助けてくれない。
目の前の煙を眺めながら、私は以前の恋人を思い出していた。
私たちは一緒に暮らす小さな部屋にいて、二人で並んでソファーに座って煙草を吸っている。とりとめのない会話をして、それがどんな内容かも思い出せないけど、私たちは笑っている。飽きると外に出て夜の散歩に出かける。
手をつないで、行き先もなく。コンビニがあればコンビニに入って、
公園があれば公園のベンチに座って、いつまでも喋っていた。何にもないけど私は満たされていて、純粋に物事をキャッチできて、目の前の彼がただ大好きだった。そんな何でもない恋愛がとても綺麗で美しいものだった。
非現実な日常の流れが私たちの確かな現実で、それだけを頼りに生きていくことに何も迷いがなかった。でも、私はどこかで知っていたんだ。彼とはいつか別れるんだって。だから今この瞬間が、清らかなんだって。
その恋人とはアパートの契約更新を境に別れたんだ。どちらかが言い出すわけでもなく。まるで最初からそれが決まっているみたいに私たちは別れたの。おかしいでしょ?私たちは今を生きていて、未来なんて想像してなかった。私たちは未来を一緒に作っていく関係じゃないってお互いそれが分かっていたのよね。未来を想像したら壊れちゃうって、分かっていたのよ。
引っ越しのトラックが2台、それぞれに荷物を積んで、それでバイバイ。
笑っちゃうでしょ。たまに思うんだ。あの恋愛は全部、私の空想だったのかな、って。でも、確かに現実だった。とびっきり尊い毎日を抱えて守っていたの。
私は思い出を回想しながら、今の現実と自分をどうにか結合しようとしていた。
私は途切れずに歩いているし、歩いていくんだ。
私は、現実を、歩いていくんだ。
「...!」
彼の声で引き戻される。
「ねぇ!」
「ん?」
「どうしたの?」
「あ...ごめん...ちょっと考えごと」
私は何とか気を取り直す。
彼の顔が強張る。空気が張りつめていく。
「別れたいなら、そう言ってもらっても...」
一度は気を取り直してみたけど、また私の心は乱れてく。
頭がカーっとしちゃってさ、で。言ったんだ。
「私がどう?じゃなくて、あなたはどう思ってるの?」
空気が破裂しちゃった。
でも、私は飛び散った空気がもう一度集まろうとすることを知ってるの。
もう一度集まる空気を捕まえて、人って進んでいくものじゃない?
彼は言葉を探す。
私は期待する。彼が、私の聞きたい言葉を、ちゃんと見つけ出してくれることを。
しばらく沈黙があって、彼は言ったわ。
「俺は..別に別れたくないけど...あとはお前しだいだろ...」
シーンと音が消えて、私は静かに目を閉じた。
鼻の奥がツンとして、顔を手で覆って、嗚咽をもらして泣き出しちゃった。
私の聞きたい言葉なんて、彼の中には全然ないんだな。
私はさ、そんな薄っぺらな言葉じゃなくて、私の手を引いて一瞬でこの泥沼から抜け出して空まで連れてってくれる、そんな言葉がほしかったのに。
涙がなかなか止まらないや。
喉から変な声が出てきてさ、私は泣き続けて、周りのテーブルの人たちもチラチラ私たちを見始めた。
「お、おい、そんな泣くなよ。恥ずかしいだろ、別れないならそれはそれでいいだろ...」
やっと、涙がひっこんできた。
私は窓の外を眺めて、深く綺麗な夜の闇を見る。
次の瞬間、名セリフが浮かんだわ。
このセリフを目の前の彼に言おう。
それはとっても名案に思えた。
大きく息を吸って、口角を上げて、気持ちを整える。
彼の目を見つめ、私は勢いよく言い放つ。
「わたし、ファミレスって大っ嫌いなの」
◇
彼は口を開けたまま一瞬固まってから言った。
「なんだよいきなり、何で?」
何で?
少し考えて答えを見つける。
「ファミレスってさ、どこにも行けない、行き止まりみたいな場所じゃない?」
その言葉は、私がずっとずっと言いたかったことのような気がして、自分の心の内側を、全部言い表しているような気がして、言った瞬間、目の前の霧が晴れたの。
ぱぁっと視界が明るくなるみたいにさ。
現実と自分が結合していく。
うわぁ!最高だ!って思ったよ。
不安を打ち負かす自分のエネルギーが、じんわりと体に広がっていく。
そしたら今度は笑いが込み上げてきてさ。
大きな声で笑いだしちゃった。
彼は唖然としてまた固まったわ。
その姿も可笑しくて、私はお腹を押さえて笑いが止まらなくなっちゃった。
ひとしきり笑い終えたら、何だかすっきりしちゃった。
ふぅ、ふぅ。
呼吸を整えるのもやっと。
0時。
日付が変わった。
そんなこんなで、私はどうにかこの行き止まりから抜け出せたみたい。
私は目の前の彼と歩いてくのか、ひとりで歩いてくのか、まぁどっちでもいいんだけど、とにかく次に進めそうだわ。
私って自分勝手かしら。
でも、まぁまぁがんばってるとも思うんだ。
さ、そろそろ行かなきゃ。じゃあね。
「今夜、ファミレスの片隅で。」
(終)