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センスと感性は知識と情報量

センスとか感性とか呼ばれるものの大部分は単純に知識と情報量だと思う。

100の情報を読み取り処理してる人の考え方は、もともと10しか処理できない人には理解できない。100やってる人にとってはまさに見たものをそもままやってるだけなのになんで?っていう感じなのではないか。


例えば写真を見て人間の絵を描くときに指を3本しか描かない人がいて、写真にはちゃんと指が5本写ってるとする。

ふつう、なんで?写真見たら5本あるものをなんで3本に描くの?そもそも人間の指は5本だということは自分の手を見たら分かるでしょ?って思うんだけど、そこまでの情報処理を誰もがしてるわけじゃない。逆に人の指は5本と言う知識が先行し、写真には見えてないのに5本書いちゃう人もいる。普通の人は本当に写真を見てそのままの情報を目から入力して線として出力することも簡単ではない。ましてや写真がないものを描くことも難しい。

で、少し描ける、お手本があれば描けると思ってても、赤いものを赤く描いたとき、もっと情報量や処理能力が高い人から見れば、なんで違うものを描くの?見たままを描けないの?もっと暗い赤じゃんとか、赤の分量が違うじゃん、青が少し混ざってるのになんで混ぜないの?とまず読み取る情報量が違い、それを出力するための知識量、そして再現する手先の技術が違う。

情報量の多い人からみたら最初の指を5本に描くのと同じレベルで当たり前のことが、少し絵が描ける人にとっては処理できない情報量になる。

これを指を3本で描く人にはもう理解不能の領域なので感性とかセンスと呼ぶのだろう。

自分はまさにプロになれるくらいはちょっと漫画が描ける人ではあるが、売れてる人ほどに物語の構成や読者の感情がどこで動くかの部分は受信も出力もできてない。情報量とその処理能力はある程度は技術と同じく意識することと経験値を積むことで向上はできる。CPUが同じでもOSのアップデートを繰り返すことで効率を上げ、処理できる情報量をある程度までは増やせるかもしれない。

たさ、どれだけ効率化しても演算力には限界がある。才能と言うのはその上限でそこは身長骨格と同じくらい個人差や遺伝的要素はあると思う。目の解像度や表示色数などのスペック差も努力では越えられないものはある。


最近目にした音楽でも東大卒世界一位ピアニストやハーバードと世界的音大両首席卒業バイオリニストとか、芸術と学問の両方においてトップクラスを並走できる人たちがいる。受信機である耳の感度はもちろん指先の感触に対する再現度、一つの音に対する情報処理量が違う。いい動画制作にしても音楽にしてもまずはCPUが最高級じゃないと扱えないのと同じこと。演算能力の上限値が才能なのだと。

こないだ読んだ母が毒親で東京芸大に現役で入ったのに親が喜ばないから翌年東大に入り直した汚部屋そだちの東大生の作家さんとかもそうだと思う。

(何かの入力ミスらしいがこの消せない黒い四角はなんだ?)

そんで一流のアスリートとかは演算の一部を脳から肉体に委託するレベルで反復してるんではないか。目で入力して脳の演算を無意識化して直接肉体が反応する。筋肉が情報処理する。もともと脳の演算力が高いアスリートがたまに言語化して説明してくれるけどそもそもの情報処理量が多い人が一流というのは同じだろう。

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